
新車の土足禁止のお話?
いえいえ、そういうことではありません。
わたしたち旭東教会の会堂。ごくごく当たり前のように、玄関先でそこまで履いてきたはき物を脱いで、スリッパに履き替えて来ました。
それにまつわるお話です。
**************
でも、来たる、5月28日(日)からは、基本的にスリッパへの履き替えはなくなるのです。
それでもですね、実は、玄関先のスリッパを撤去するわけではないのです。例外があります。
もしも、みんなが長靴を履いて来るような激しい雨模様のとき(日曜日の礼拝の時間がぴったりそうだったことはこの2年間はありません)などは、会堂内が滑りやすくなるといけないので、元気な方たちは、スリッパへの履き替えをお願いする。
或いは、ほんとうに恐縮なことですが、ピンヒール?というのでしょうか。
歩くと、こんこんと音がするような御靴。かかとの所に金具を打ち付けている履物。そして下駄を履いて来られた方には、スリッパへの履き替えをお願いすることに今のところなっています。床のつよさの問題もあります。
とにかく、そんな計画が動き始めました。
**************
わたくし(牧師のもりでございます)の個人的な記憶をたどるならば、信徒の時代も含めて、比較的規模の大きな教会では外履きのまま教会内で過ごすことが多かったと思います。
まぁ、200人、300人の方たちが、玄関先でヨッコラショというのは物理的にあまりに効率が悪く、とにかく危ないですね。
でも、わたしたち旭東教会のように、礼拝にお出でになる方が30数人~40人程の教会ですと、余程のことがない限り、あるいは、貸部屋で礼拝を守るという状態でなければ、スリッパへの履き替えることの方が多いのではないか。
そう思います。
**************
旭東教会の土足解禁のきっかけ。
振り返って見ますと、半年ほど前、ある方が玄関先でき物を履き替えようとしていたとき、コロンと転ばれました。
恥ずかしながら、わたくし、「あー、これくらいなら」とこころの中で思ったのです。
本当に恥ずかしいです。
**************
実はわたくし、小学校4年生の頃からサッカー少年となりました。
Jリーグなんてない頃です。
大分市立大在小学校で、かっこ良かった伊南先生のご指導を受けつつ、サッカーに夢中になりました。
フィールドプレーヤーとしての実力のなさ(それでも中学時代はキャプテンでした)を自覚したわたくし、高校1年生の頃からGK=ゴールキーパーに転身。
当然、飛んだり跳ねたり、転がったりの練習に明け暮れました。つまりそれは、転んだときの受け身が上手になった、ということでもあります。
**************
しかし、一人の方が目の前で転倒されたことは心の中に深く刻まれました。
そして、他の方にも同様のことが起こる可能性は十分あるのではないか、ということが気になり始めたのも事実でした。
ですから、応急処置として、はき物を脱いだり履いたりするときのための丸椅子を玄関先に置いたりはしました。
でも、利用される方はほとんどおられない。
そして、それ以降も、玄関先で幾人もの方たちの「おっとっとっと-」を見かける状態が続いて来たという次第です。
**************
今年の2月末でしたか、東中国教区の交換講壇として、倉敷水島教会をお訪ねした時のこと。
1年半前、松井初牧師の就任式でお邪魔したときは靴を脱いでいたはずなのに・・・。
な、な、なんと、土足解禁になっている!ということに気付いたのです。
倉敷水島教会でも、丁寧な準備をして来られたようですが、土足解禁となって失ったものは殆どない、ということを教えて下さいました。
その事実も大きかったと思います。
やっぱり、よその教会にお邪魔して、あれやこれやに触れることは意味あることだなぁと思う次第であります。
**************
今、わたしたち旭東教会に求められていることは何だろうか。
そう考えてみますと、実は、安心かつ安全な環境が、教会の中にも必要だということも間違いなくあげられると思います。
実は、旭東教会ではこの一年間で、冷暖房の施設を新型に変えて行きました。
とりわけ、火の気や、触ると大やけどするようなストーブなどがあぶないわけですが、それを取り去って、FF型の微温風式ファンヒーターとエアコンに変えたそのきっかけ。
それもやはり、元気な子どもたちに事故が起きたり、或いは、年齢に関係なく、思いがけない転倒事故が起きたら大変なことになると考えたのです。
そういうことが、冷暖房の施設のあり方についての検討を急ぐきっかけとなり、グイグイと設備を整え始めたことに結び付いていることを思い出しました。
**************
バリアフリーという言葉があります。
やはり教会にも、いえ、教会でこそ、深い意味での〈こころのバリアフリー化〉のための努力が必要です。
それと同時に、教会の中でお怪我をすることなどありませんように、という安全面でのバリアフリーを徹底して進める必要がある。
まことに遅ればせながらですが、気が付いた次第です。
**************
わたしのたいせつな先生のお一人に、関田寛雄先生(牧師)という方が居られます。
フーテンの寅さんをこよなく愛し、寅さんの語る言葉を説教で紹介されるお方であります。
そしてもう一方では、気骨ある行動と発言を、愛をもって徹底してなさる先生です。
実践神学の先生に違いありませんが、生き方について、深く、その横顔や後ろ姿を通して教えて頂いて来ました。もちろん、正面からも学ばせて頂き、心から尊敬するたいせつな方です。
**************
その関田寛雄先生の、さいごの大きな論文集の題が『「断片」の神学』(日本キリスト教団出版局)というものです。
そのご本のはじめに、こう記されています。
【解放と救済の事件はいつも特殊な状況において生起するもの・・・・・・・「今とここ」に立つ以外に神学的発言の場はない。神学の「断片」的性格は歴史的に生きる神学にとっての必然なのである】
**************
むつかしい言葉を引用してごめんなさい。
わたしなりに、翻訳しますと、こうなります。
【机の上でいろいろ考え続けても、なにも始まらないのです。どこかの神学者の語る大問題を引っぱってきて、議論をかわしていてもなにも変わりません。
でも、あなたの生きている場で、あなたが傷つき、傷つけてしまった、ほんとうに小さな、ちいさなカケラにしか見えないようなこと。
そのことに、心血を注ぎ、まごころをもって誠実に取り組んで行くときに、イエス・キリストの救済のできごとに通ずる真理の道が見えて来る、今、わたしはそのように確信しています。】
おそらく関田先生は、こんなふうに言われているのだろうと思います。
**************
随分時間が経ちましたが、それでも、ようやくスタート地点に立とうとしています。
われら旭東教会。
何かがきっと新しくなるはず、そう信じて、心をひとつにして歩み出します。end