星ことば *五百字メッセージ
2025年3月30日 牧師 森 言一郎
『 友よ と呼んでくださるイエス 』
【 聖書 】
イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 (マタイ福音書 26章48節)
弟子たちを伴ってオリーブ山に向かうイエスは立ち止まって語り始めます。イエスさまがオリーブ山でのお祈りを終えられたのは朝に近い深夜のことでした。
主イエスが、「立て、行こう、見よ、私を裏切る者が来た」と言われたとき、弟子達はようやく目を覚まします。目の前に「剣や棒」を手にした者たちがやって来たからです。
*
「剣や棒」とはこの世的な力を象徴するものです。何より彼らの全身に力が入ったのは仲間のユダがそこにいたからです。
塚本虎二先生の訳では、ユダが「いきなりイエスに近寄って、「先生、御機嫌よう」と言って接吻した。」とあります。対するイエスさまは身構えるのでもなく、弟子たちに合図を送って助けを求めるのでもない。「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。
*
ご自身を引き渡そうとしている者にして「友よ」と呼ばれる。
ここにはイエスの愛の本質が見えます。裏切り者を受けとめ抱擁される。
*
もう一点、「弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」ことを確かめましょう。
ペトロとて「遠く離れて主に従った」に過ぎません。何があっても私は先生を見捨てることなどいたしません、と競い合っていた彼らが、あることに気付いてしまったのです。
*
それはイエスさまが、「聖書の言葉は実現(*=「成就」)されなければならない」と語れたことに直結します。
彼らはイエスさまが「本当に死を覚悟されている」ことを悟ったのです。
その瞬間、「復活したらあなた方より先にガリラヤへ行く」と言われた主のお言葉が腑に落ち、恐くなった。
*
弟子達はとんでもない大嘘つきなのでしょうか。
否(いいえ)、人間とは正にこのような存在なのです。逃げ出す者達の中にあなたの姿も見えます。end
2025年3月23日 牧師 森 言一郎
『 ゲッセマネの園にて 』
【 聖書 】
「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイによる福音書 26章39節)
弟子たちを伴ってオリーブ山に向かうイエスは立ち止まって語り始めます。
とりわけ、「私は復活した後に、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたイエスさまのお言葉は心に刻みたいのです。
*
ガリラヤで待っているイエスは、ご自分を見捨てることになる弟子たちを受け入れて下さる、ゆるされるという内容だからです。
この時のペトロからすると、そんなことは決してあり得ないことでした。
だから、「この私だけは、何があってもあなたを見捨てることなどあり得ません。ご一緒に死ぬ覚悟が出来ています」と言い切った。
*
ゲッセマネで祈られるイエスさまは弟子たちのところに三度来られます。彼らは完全に眠りこけていました。
が、そんな彼らに対して「お願いだ、私と共に祈っていてくれ」という思いを伝えているのです。
*
「死ぬばかりに悲しい」と仰るイエスさまは一緒に祈っていてくれる弟子を求めておられたのです。
ここには人としてのイエスのお姿があります。まことの神にして人であるイエスです。
*
今年のレント、私は新たな気付きが与えられました。
ディートリッヒ・ボンヘッファーという牧師がナチスドイツに抵抗して入れられた獄中で作った賛美歌に「善き力にわれ囲まれ」(21-469)があります。
その3節にボンヘッファーがやがて迎えるであろう理不尽な死を目前にしつつ、実は誰よりも先ずイエスさまが、「たとい主から差し出される杯は苦くても、恐れず、感謝をこめて、愛する手から受けよう」と祈られたお方であることを歌っていることに気付いたのです。
*
人生、悲しく辛(つら)いことが起こります。
でも喜びをも満たして下さる時がやがて来ることに私たちは望みを持ち続けたい。end
2025年3月16日 牧師 森言一郎
『 居なきゃならない 主の晩餐 』
【 聖書 】
一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。(マタイ福音書26章21節)
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「主の晩餐」とも呼ばれる「聖餐式」の起源はどこにあるのかと言いますと、「過越の食事」にさかのぼります。
ユダヤ教徒は昔も今も「過越の食事」を春のこの時期に大切に守り続けています。家族で守るのが特徴です。絶対に欠かせない食事です。
聖書的な裏付けは出エジプト記12章で、奴隷状態の民がエジプトから解放されるのです。エジプトに襲いかかる災いが主の民の上を通り過ぎました。
*
イエスさまは十字架につけられることになるその直前にエルサレムのとある部屋で「過越の食事」を始められました。
ところが、思いがけないことが起こったのです。食卓を囲んだ弟子たちに向ってイエスさまは「私を裏切る者がこの中に居る」と言われたのです。
*
弟子たちは即座に否定します。ただしイスカリオテのユダの様子が違ったことを聖書は知らせます。
「汝(なんじ)は言えり」(永井直治訳)とイエスさまは宣言された。
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伝統的な仕方で過越の食事は始まったはずです。
ところがイエスさまは定められていた式文に無いことを語り始めたのです。パンを裂かれる時、「これは私の体である」と言われます。
ぶどう酒の杯を高く上げた時には、「皆、この杯から飲め。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」と言われた。
*
イエスを売るイスカリオテのユダはこの場所に最後まで居合わせたのでしょうか。私は居たと読みます。
これは「罪人のための食卓」だからです。主の晩餐の意味を弟子たちが悟るには十字架と復活が必要でした。
*
私たちが罪人の自覚もってみ言葉を信じ、キリスト・イエスのお言葉の元でこの食卓に与(あずか)り続ける時、そこには救いと祝福があります。end
2025年3月9日 牧師 森言一郎
『 彼女は 何を捧げたのか 』
【 聖書 】
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。(マタイ福音書 26章6~7節)
*
ユダヤ人にとって最重要な祭である「過越祭」が2日後に迫っています。「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」という受難予告のお言葉が漏れ伝わっている時期でした。
*
時を同じくして、エルサレムから10㎞離れたところにある「ベタニア」にイエスさま一行がおりました。場所は「重い皮膚病の人シモンの家」でした。
エルサレムは喧騒に満ちていましたがシモンの家には全く別の時が流れています。イエスさまがそこに身を置いている意味は小さくないのです。
「王なるイエス」がいつも身を寄せていたのが汚れた病である重い皮膚の人シモンの家であることはユダヤの権力者たちにとって躓きです。
*
この時、極めて高価な油の入った壷を抱えた女もそこに居ました。女は香油をイエスさまの頭から注ぎかけます。彼女にはそこに居合わせる必然がありました。
小さな問答を経て弟子たちは叫びます。「なんて馬鹿なことをするんだ。これだけの量の香油はひと財産だぞ」と。彼女がここまでどのように生きて来たのか、その背景は不明です。何のために蓄え続けてきた香油なのかもわからない
のです。
*
一方、女にとっては、イエスさまがシモンの家に身を寄せていることだけでも大きな福音です。彼女はイエスさまの死の予告の言葉を知っていたのだと思います。
女はイエスさまが死を迎える日がそこまで来ていることを知っていたからこそ、イエスさまのために香油を注ぎ出したかったのです。
*
彼女にとって油は単なる油ではなく命であり主への愛、否、全てでした。
その生き方は世界各地で記念され続けています。さて、私たちは何を捧げましょう。end
2025年3月2日 牧師 森言一郎
『 主よ、我を救い給え 』
【 聖書 】
だが、強い風を見て恐れ、溺れはじめ、叫んで言った、「主よ、我を救い給え」。(マタイによる福音書 14章30節・田川建三訳)
イエスさまは弟子たちを「強いて」舟に乗せられ、向こう岸へと向かわせます。
ご自身は一人山に登られ祈りの時を過ごされるのです。弟子訓練です。
*
沖に出た弟子たちの舟は程なく強い風のため逆巻く波に悩まされはじめます。
同じ場面を描くヨハネ福音書では「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出した頃」とし、その距離およそ5㎞だと記録します。
弟子たちはイエスさまが居られる山からかなり離れた所にいるわけです。
*
「舟」が「教会」を意味するものだと考えるならば、教会の置かれている状況は順風満帆ではなく逆風の中にあったのだとも読めます。時に私たち一人一人の信仰生活も実にしばしば世の風に悩まされ、惑わされることに遭遇することを暗示します。
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波と風との格闘に疲れ、命の危機を覚悟し始めていた弟子たちは、明け方近く、湖の上を歩いてくるイエスを見たのです。
主は言われます。「恐れるな、私だ」と。
信じて安心したペトロは、「私に歩いてあなたの所に行けるように命じて下さい」と言うのです。
*
するとペトロは「来なさい」のお言葉をイエスさまから受けたのです。そしてペトロも湖の上を歩き出し、イエスの方に進んだのです。
ところが、イエスさまから目を離し風に心奪われた瞬間に溺れはじめました。
ペトロは叫びます。「主よ、我を救い給え」と。その時既に、ペトロは主の手に捉(とら)えられていました。
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ペトロは信仰の英雄ではありません。信仰の薄さ、頼りなさ、小ささを隠せない人物であり、何度も何度も恥をかく人間です。
しかしそんなペトロを、主は愛されていることを聖書は告げています。end
2025年2月23日 牧師 森言一郎
『 キリストの教会であるために 』
【 聖書 】
あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(第一コリント書 12章27節)
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パウロは「あなた方はキリストの体である」と言います。しかも誰もが「その部分」だというのです。私たちは独りぼっちではありません。
やさしい言葉を使う英訳聖書『Today's English Version』では、コリント前書12章27節が「All of you are Christ's body, and each one is a part of it.」となっています。
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「キリストの体」という表現は、ローマ書12章4節以下やエフェソ書1章22節以下でも語られておりパウロの「教会論」の特徴です。
特に意識したいのは、教会の「頭(かしら)」とその「かなめ石」はイエス・キリストだという点です。
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子どもたちにも伝わる言葉で記されている『子どもと親のカテキズム』(日本キリスト改革派教会大会教育委員会)があります。
問44では「教会の交わりの中で養われる私たちの「使命」は何ですか」という問を立てます。
その答は、①福音宣教・伝道、②困っている人を助ける(隣人となる)こと、③大地を治めること(生態系の保全に努める)とします。
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私たち、明確な「使命」が与えられていることは実に幸いです。「特別の意識や目的を持たないまま」漫然と過ごしていてはもったいない。
人は少し高い意識で目的をもって生きることが出来ている時、充実してきます。その原点にあるのが礼拝です。
*
さらに上のカテキズムでは、問46で「礼拝で私たちは何をするのか」という問を立てます。
その答として、「①神をあがめ、神さまを喜び、賛美します。②聖書朗読と説教をきき、聖礼典をお祝いします。③お祈りをし、賛美歌を歌い、信仰を告白し、献金をささげ、教会の働きに仕えます。」とするのです。
礼拝とは何かを明確に知ると、私たちの信仰がキリッとしてきます。end
2025年2月16日 牧師 森 言一郎
『 神に近づく時 神は近づかれる 』
【 聖書 】
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。(ヤコブの手紙 4章8節)
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律法の規定が事細かに記されているのがレビ記です。レビ記16章には「贖罪」についての教えがまとめられています。その16章の最後(16章32~34節)には、特別に任じられた祭司だけが、それも年に一度の定められた時に儀式を執り行うことで罪の赦しの儀式が完了すると記されています。
*
つまり、神さまは近づきがたい存在であることが示されているのです。ところが、私たちが読んでいるヤコブの手紙には「神に近づきなさい」とあるのです。
その教えは今を生きる我々への教えでもあります。一体どのようにしたら私たちは神に近づくことが出来るのでしょう。
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ルカ福音書18章に徴税人とファリサイ派の人の祈りの譬え話があります。
徴税人は遠くに立ち、「神よ、罪人の私を憐れんでください」と祈るだけなのですが、イエスさまが真実な礼拝者としての祈りを捧げたのは、あれやこれや自信満々に祈ったファリサイ派の人ではなく徴税人だったと教えられました。
徴税人は神から遠く離れた所にしか立てない自分の罪深さを認めていた人です。
イエスさまはそのような人こそ、神のみ前に裸で進みでて、そのへりくだりが認められた者だと教えられるのです。
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イエスさまが十字架上での死を遂げられた時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと記されています。
神殿の中心部に進みでなくとも人は神に近づける、まことの礼拝の道が開かれた瞬間でした。
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ルカ福音書15章の放蕩息子のことも思います。彼は遠い国でボロボロになり、罪人の情け無い自分をさらけ出す決意をもって故郷に戻ってきました。
待ち続けていた父親はそんな彼に自ら走り寄ったのです。end
2025年2月9日 牧師 森言一郎
『 嵐の海で 叫んだ弟子に学ぶ 』
【 聖書 】
しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。(マルコ福音書 4章38節)
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イエスさまの弟子として育てられていくその途上には色々なことがあるものです。
1章35節以下には、朝まだ早く暗いうちに一人起きてお祈りしているところに弟子たちがイエスさまを呼びに来る場面があります。彼らは祈るイエスを知っていました。それもまた彼らを育てる教育となったのです。
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12弟子をお立てになった時、イエスさまは彼らをご自分の側に置くことも大切にされた、と記されています。
それはイエスさまが現場教育を重んじられたことを暗示しているのです。
*
マルコ福音書4章の終わりには、異邦人の地デカポリス地方に向かうことを意味する「向こう岸に渡ろう」との呼びかけがあります。
気の進まない命令の言葉だったはずですが誰一人不満を口にしません。ライバル心もある弟子たち。そんな格好の悪いことは出来ません。
*
ガリラヤ湖は天候が変わりやすいため沖に漕ぎ出した舟は嵐に見舞われます。舟が水浸しになり弟子たちは命の危機に置かれるのです。
肝心のイエスさまは艫(とも)の方でぐっすり寝ておられました。彼らはついに平静を装うことが出来なくなり、「先生、よく平気で居られますね。わしらが溺れ死にそうなのに」と叫びました。
*
するとイエスさまは風と湖に向かって、「黙れ、静まれ」と言われたのです。弟子たちに言われてもよい言葉ですが違います。
弟子たちは驚きます。そしてそれ以来、主イエスのお言葉に天地創造の神を重ね始めたのです。
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何よりこの場面、彼らがイエスさまに対して叫び求めたことが重要です。
人生に襲いかかる嵐の時に心底叫び求める。はじめの一歩はそんなところにあるのです。end
2025年2月2日 牧師 森 言一郎
『 異邦人の庭のイエス』
【 聖書 】
イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。(マタイによる福音書 21章12節)
マタイ伝21章は柔和なイエスが神殿で激しい態度を取られる様子を告げます。
「宮清め」はヨハネ福音書2章にも描かれます。そこでは、「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる」という言葉が記録されていましたが、マタイは少し異なる筆で、主イエスの受難と復活に繋がる出来事を告げるのです。
*
本来「祈りの家」であるべき場所が、商売の家となっていることを激しく警告された時、イエスの心にあったみ言葉があります。それはイザヤ書でした。
イザヤ書56章には、「異邦人にも恵みの業が現れる救いの日は」近く「主の元に集まって来る異邦人が喜びの祝いの礼拝に連なる日が来ること」が預言されています。イエスさまはその預言の成就を示そうとされます。
*
神殿の一番外側に位置するのが「異邦人の庭」でした。「異邦人」は両替商の元でエルサレム神殿で認められる貨幣に両替しない限り規定の献げ物をすることは許されません。
しかし、当時はびこっていたのは両替商たちによるピンハネであり異邦人やそこに近いところに属する人びとを祈りの場所から排除しようとする権力者たちや寄生する人々の思いでした。
*
まるでアダムとエバがエデンの園を追い出された時と同様にエルサレム神殿の商売人たちが追い出されます。
そして、献げ物として売られていた羊や牛も境内から追い出された。その理由はイエスさまご自身が究極の献げ物となるからです。もはや礼拝の時に、動物の犠牲は不要となるのです。
*
十字架の死が成し遂げられた時、神殿の垂れ幕が破れ落ちます。異邦人と神を遮る一切のものが取り去られた瞬間でした。end
2025年1月19日 牧師 森 言一郎
『 主の招く声が聞こえますか?』
【 聖書 】
イエスは、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。(マタイによる福音書 4章19節~20節)
マタイ福音書4章はイエスさまが悪魔の誘惑を受ける場面から始まります。荒野・神殿・世俗の全てを知り尽くしておられるお方がイエスなのだ、ということが告げられます。イエスさまは私たちの暮らしをよーくご存知のお方なのです。
*
イエスさまが福音を宣べ伝える働きを始められたのは「ガリラヤ」でした。ガリラヤは旧約聖書の原語であるヘブル語の「ガーリル」で元々「辺境」の意味があります。
ガリラヤは地理的に神殿のあるエルサレムから離れているだけでなく、北に位置するためアッシリアやバビロニアなど異邦人と接点がある地域なのです。
*
イエスの第一声、「悔い改めよ。天の国は近づいた」はそんな辺境の地ガリラヤから発せられるのです。イザヤ書8章の終わりから9章の初めにある預言の成就が起こります。
*
イエスさまがその直後に始められたことがあります。ご自身の宣教の働きのために〈共に生きる弟子たち12人〉をお立てになることでした。彼らはイスカリオテのユダを除き、皆ガリラヤで生きて来た人たちでした。
ペトロとアンデレら漁師の兄弟は、「私について来なさい」との招きを受けます。興味深いことに彼らは「すぐに網を捨てて従った」のです。そして、ゼベダイの子ヤコブとヨハネたちも「舟と父親を残して」主に従うのです。
*
イエスさまに従う旅に出るには手放さなければならないものがあるのです。
私たちも問われています。せっかく招きを受けているのに何も変わらないままの私でいるのではないかと。
イエスさまは十字架の上で全てを手放されるお方です。その主に私たちはどう応えようとしているのでしょう。end
2025年1月12日 牧師 森 言一郎
『上からの知恵と生き方』
ヤコブ書は「全キリスト者への手紙」だと言われます。「全キリスト者」には、当然私たちも含まれるのです。
ヤコブはここで「知恵」の大切さについて考えることを呼びかけます。しかも「柔和」が伴い、さらに「生き方」つまり実践が問われるのです。
*
ヤコブはパウロが強調する「信ずることだけで救われる」という信仰の在り方に危機感を抱いていました。
だから彼は全てのキリスト者に「行い」を問います。
ヤコブが誠実に祈り求めよと記した「上からの知恵」(17節)はこの世的に要領よく賢く実践せよではないのです。
*
最近、小山晃祐(こうすけ)先生(1929年~2009年)の『神学と暴力 ―非暴力的愛の神学を目指して』(2009年・教文館)という本を読む機会がありました。
小山先生は、日本よりも広く世界の方で知られている方です。視野が広く、骨太で、私はこの方は常に本気の牧師だ、と感じました。
*
小山晃祐先生、ある講演でこう語られています。
「一人の人が苦しんでいるとき、イエスさまという方はおろおろされています。そのイエスさまを信じているわたしたちも、一人の魂の苦しみをまえにしておろおろする者でありたいと思うものです」
とあります。
*
ヤコブは17節で「上から出た知恵の元に生きなさい」命じるのですが、ここでの結論的な言葉だと思います。
わがまま病を抱え、自己中心的な生き方から脱出できない私たちに、「知恵」すなわち「神の元」に、すがりついてでも生きなさいということです。
イエスさまも、様々な現場におて、「おろおろされる方」だと知っているならば、私たちはこれからもきっと大丈夫なはずです。end
2025年1月5日 牧師 森 言一郎
『 シメオンに届いた救い』
【 聖書 】
シメオンは幼児(おさなご)を両腕に抱き、こう言って神を賛美した。今こそ、主よ、あなたはこの僕をお言葉のとおり安らかに去らせてくださいます。(ルカ福音書 2章28節~29節 私訳)
場所はエルサレム神殿。
ルカによるクリスマスの物語はシメオンとアンナという老人たちによって締めくくられます。
シメオンは聖霊の導きの元、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを受けていました。シメオンは信じて待ち続けて生きてきた人でした。
*
レビ記12章に定められた清めの期間を経て幼子イエスは両親に抱き抱えられて宮詣(みやもうで)したのです。
でも、神殿に居合わせた人の中で、一人として、そこに救い主がやって来たということには気付きません。人知れずことは進んだのです。
ヨセフとマリアも、律法に、『初めて生まれた男の子は皆主に聖別しなければならない』と書いてある通りにイエスを捧げます。ただし、二人の贖罪(しょくざい)の捧げ物はレビ記12章8節にある「産婦が貧しい時」の質素なものだったのです。
*
両腕にしっかりと幼子を抱きしめる老シメオンに再び聖霊が働きます。ヨセフとマリアが何かを告げたわけでもないのです。
でもシメオンは「救い」が自分の胸の中に届いたことを悟りました。突きつめて申し上げるなら、「もう死んでも構いません。その時が来ました」と歌い始めたのです。
*
「人生いかにいくべきか」という問いを私たちは常に抱えています。
が、同時に、「人生いかに死ぬべきか」を考えながら生きることが出来るのがキリスト者であり、与えられている恵みなのです。
*
シメオン同様、私たちも「救い」であるキリストを大事に抱えながら生きて行く存在です。それを週毎(しゅうごと)の礼拝で仕切り直しながら安心して生きて行く旅路を続けるのです。
アンナはその一部始終を見届けて伝道を始めた、最初の女(ひと)でした。end
2024年12月29日 牧師 森 言一郎
『博士たちの旅 私たちの旅』
【 聖書 】
(ヘロデは)こう言ってベツレヘムへ送り出した。「行って、その子のことを詳しく調べ見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」(聖書協会共同訳・マタイ福音書 2章8節)
東方の博士たち。彼らは旅人です。私たちは「あなたも旅人なのですか」と先ず問われます。
*
東方の博士たちの登場は福音書の最初の読者であるユダヤ人を驚かせるのに十分でした。
アッシリアやバビロンなどユダヤ人の敵となった国々が在ったのが東方です。東は敵地であり追放の地でした。単に方角を指すのではなく異邦人を意味します。
しかし「福音は東の人を求めている」のです。
*
星に導かれてエルサレムに到着した彼らが口にした、「お生まれになったユダヤ人の王(救世主=キリスト)はどこにおられますか」という言葉は躓きに満ちたものでした。
エルサレムでは決して口にしてはならない言葉を博士たちは恐れることなく発したのです。
*
ヘロデは彼らを秘かに呼び寄せ、平静を装って言います。「行って、調べ、見つかったら知らせよ。私も行って拝むから」と。
しかし、博士たちは「別の道」を通って帰って行くのです。
*
博士たちは日常を手放して旅を始めました。
彼らが東の国から携えて来たのは「宝の箱」です。「宝の箱」に「黄金・乳香・没薬」が納められていた。
これは実に興味深いことです。彼らが救世主=キリストを礼拝する人々のひな型として登場していることを心に置いて考えると、礼拝者としての姿勢について新たに問われるのです。
*
彼らは星に導かれて辿り着いた礼拝の家で喜びと感謝に溢れます。
博士たちは一番大切なものを捧げる人たちでした。宝箱から大切なものを取り出して捧げた彼らは、空っぽのまま家路に着くのではありません。
救いのみ言葉に満たされて「旅」を続けたのです。end
2024年12月22日 牧師 森 言一郎
『 クリスマスのにおい』
【 聖書 】マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ福音書 2章6節後半~7節)
キリスト・イエスが世においでになった時のことをヨハネによる福音書は1章14節に「言は肉となって、私たちの間に宿られた。・・・それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と表現します。
実にヨハネ福音書らしい格調の高さを感じますが、実際はどうなのか。
*
神の御子は家畜小屋にお生まれになったのです。置かれたのは「飼い葉桶」です。
干し草に包まれて温かったか、寒風が吹き抜けていたか。はっきりしているのは、どんなにきれいな飼い葉桶でも「におい」があったことです。それは必然でした。
においという文字には「匂い」と「臭い」がありますが、とりわけ我々人間には「におい」だけでなく「くさい=臭い」がつきまとうように思えてならないのです。
*
私は「におう」ということと、家畜小屋にお生まれになった神の御子のお姿は深い結び付きがあると思っています。
「臭い飯を食う」とか「何か様子が変だ、臭うな」という日本語があります。人にはいつも何かしらのにおいがつきまとう。それはその人らしさでもあります。
*
よき知らせを天使の大軍から告げられた羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう」と話し合い、彼らの生活の座を離れて、「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。
彼らの安心には「におい」があったのです。幼子イエスも乳臭かったはずです。
*
彼らは仕事柄・におう人だったと思います。皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録にはお呼びがなかった羊飼いたちでした。
でも、飼い葉桶のキリストは彼らを招き導いたのです。end
2024年12月15日 牧師 森 言一郎
『 強くやさしい腕(かいな)によって 』
【 聖書 】
主はその腕(うで)で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし(ルカによる福音書 1章50節)
『讃美歌第2篇』の56番は「主はその群れを」という歌い出しで始まるヘンデルの『メサイア』です。その1節に、「つよくやさしき 腕(かいな)をもて」という歌詞が出てきます。
「腕(かいな)」という言葉。私はNHKの大相撲放送で時に耳にする、
*
イエスの母となるマリアの「マグニフィカート=マリアの賛歌」を注意深く読むと、その後半に「腕(かいな)」が出てくるのです。
新共同訳聖書では「主はその腕(うで)で力を振るい」とあります。「腕(かいな)を返す」という場面以外で聞いたことがありません。
塚本虎二訳では「“御腕(みうで)にて”逞(たくま)しきことを行い」となっています。
マリアが、「自分のような取るに足らないはしためを顧みてくださる神」をほめ歌うのですが、その神は、決して大人しいお方ではありません。「打ち散らし」「引き降ろし」と続きます。
*
次に福音書記者ルカは、「ザカリアの賛歌(*ラテン語で「ベネディクトゥス」)」をおさめました。
洗礼者ヨハネの父ザカリアが歌い始めた賛歌を私たちは『讃美歌21』182番の「ほめうた歌え」で歌うことができます。
明るい曲ですが、内容はマリアの賛歌と同様、激しさが秘められています。ザカリアの賛歌にも「腕(かいな)」をふるって働かれる神が証しされているのです。
*
明るい曲ですが、内容はマリアの賛歌と同様、激しさが秘められています。ザカリアの賛歌にも「腕(かいな)」をふるって働かれる神が証しされているのです。
182番では、「主はその民を 顧みられ 、自由と平和 与えられる」とまとめられていますが、私たちを顧みてくださる神は、正義と愛のゆえに、「自由と平和」を下さるために「腕(かいな)」をふるわれるのです。
*
独り子を世にたまわる神は、「み国を来たらせる」ために、丘の上の十字架の「パッション(*英語で「キリストの受難」の意)」という激しい覚悟をもって世に臨まれるのです。end
2024年12月8日 牧師 森 言一郎
『 全能の神 創造の主を信ず 』
【 聖書 】神にできないことは何一つない。(ルカによる福音書 1章27節)
天使ガブリエルがエルサレム神殿に仕えるザカリアに続いて訪れたのはナザレのマリアでした。
当時の結婚適齢期は15歳程。大工のヨセフさんと婚約してからというもの少し背伸びしつつも張り切っていたマリアでした。
*
ところが、彼女がみ使いから告げられたのは、まだ妻となっていない自分が子を宿すという、あってはならない知らせでした。
「どうしてそのようなことが」と答えるマリアにガブリエルは伝えたのです。
「神にできないことは何一つない」と。
*
私は思うのです。
マリアは安息日の礼拝所で幾度も聴いた創世記の最初の言葉を想起したのではないかと。
あの「はじめに神が天と地を創造された」というみ言葉です。
*
マタイ福音書は「ヨセフは正しい人であった」と告げます。
いいなずけのマリアが、「一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」時、ヨセフは義人だからこそ誠実に悩み、律法に照らして祈り求めたのです。
マリアを少しでも傷つけることのないように求めた末のヨセフの決心が、「ひそかに離縁する」道でした。
*
程なく、彼は眠りに落ちます。その時、夢に天使が現れて告げたのです。
「ダビデの子ヨセフ。恐れずマリアを迎え入れよ。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのだ」と。
続いてヨセフが聞いたのは、彼が暗誦(あんしょう)していたイザヤの預言、「見よ、処女(おとめ)が身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」の成就でした。
*
二人には「恐れ」がありました。だからこそみ使いは、「恐れるな」と二人に告げたのです。
讃美歌507番3節に「主に従うことは 何と心強い。恐れのかげ消えて 力は増すよ」とあります。
ヨセフとマリアは、「全能の神・創造の主」に従う道を歩み始めます。
キリストの降誕(こうたん)は、このような二人を欲したのです。end
2024年12月1日 牧師 森 言一郎
『 正しい二人が選ばれた理由(わけ) 』
【聖書】
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で名をエリサベトといった。(ルカによる福音書 1章5節)
「ガブリエル」という名の御使いがおりました。
ガブリエルが最初に人の前に姿を現したのは、エルサレム神殿に仕える祭司ザカリアに対してでした。
*
ガブリエルがイエスの母マリアに現れたことはよく知られていますが、ザカリアに対しても、驚くべき知らせを携えて来たのです。
「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。ヨハネと名付けなさい」と。
実に、クリスマスの出来事の扉は、ここからじわりと開き始めるのです。
*
ザカリアとエリサベトの二人は神の前に正しい人と認められる程、落ち度のない暮らしを続けて来た人達でした。
けれども、祝福の源である子どもが与えられないまま老人となったことは言葉に言い表せない悲しみでした。
エリサベトは「石女(うまずめ)」の自覚を持っていましたし、「恥」をまとって生きていたのです。
*
しかし、その恥が取り去られる日が来る、というお告げが届いたのです。
それがキリストの先駆けとなる洗礼者ヨハネの誕生でした。
この良き知らせは、掟や戒めに忠実であることの延長線上に与えられるものではないのです。
*
ここには、旧約の民が抱(いだ)いて来た祝福の枠組みとは根本的に異なる驚きの出来事の始まりがあります。
聖書は私たちに対しても、あなた方の既成概念を捨てて、「高く戸を上げよ」「門をあけよ」「心を開いて喜びの出来事を迎えよ」と告げています。
彼ら二人は、我が子ヨハネが生まれ来る先に何が起こるかを知りませんでした。
私たちも、期待をもってその先の出来事を待ちたいと願います。end
2024年11月24日 牧師 森 言一郎
『 シケムにて ヨシュアの遺言 』
【 聖 書 】
民はヨシュアに答えた。「私たちの神、主に私たちは仕え、その声に聞き従います。」(ヨシュア記 24章24節)
モーセの後継者ヨシュア。彼は110歳で最期の時を迎えようとしています。
既に、約束の地カナンは12部族に分配されました。私たちが読むヨシュア記23章と24章では、「ヨシュアの遺言」が示されています。
*
遺言を聞くのは、ただ一人の後継者ではなく、「イスラエルの全部族・・・、イスラエルの長老、長(ちょう)、裁判人、役人」たちでした。
カナンでの生活を始めた「全ての者」が聞き従うべきことが示されるのです。
それは、律法(=み言葉)を忠実に守り、神に全き信頼を寄せること。己を過信することなく、千人力(せんにんりき)の腕(かいな)をもって導かれる主を愛することでした。
*
神がヨシュアの口を通して語られたのです。異教の神やこの世の力に依り頼むことが、厳しく戒められています。これらは全て、私たちへの警告なのです。
み言葉よりも、この世の情報を優先してしまうことが日々の暮らしの中に日常的に起こってはいないか。注意が必要です。
*
とりわけ24章では、神の民イスラエルが歩んできた救いの歴史を想起する言葉が続きます。
強調されているのは、道を切り拓いたのは「あなた」ではなく「私である」という一点です。
人の思いを遥かに超えた救いの出来事は、今を生きる私たちの人生に於いても、常に「主が備えて下さった」ものなのです。
*
「本当に大丈夫か」と問うヨシュアの前で、彼らは三度、「私たちは、主に従います」と告白しました。
主を否むペトロ、三度(みたび)「私を愛するか」と問われるペトロを知る私たちはハッとします。
*
飼い葉桶にお出で下さる独り子の存在なしには、神の国に辿(たど)り着けないからです。
「主よ来たりませ」と共に祈りを合わせましょう。end
2024年11月10日 牧師 森 言一郎
『 神のみ前に引き出されるもの 』
【 聖 書 】
「私はあなたに言う。起き上がり、床(とこ)を担いで家に帰りなさい。」(マルコによる福音書 2章11節)
「イエスとは誰であり、何であるのか」。
「中風の人をいやす」という小見出しのあるマルコ福音書2章の物語は、突き詰めて行くとこの命題にぶつかります。
確かに癒しは起こりますが決して本題ではない。しかし、福音の核心が示されるのです。
*
救いを求める人々の壁がガリラヤの家にありました。でも、中風の人は四人の仲間達の愛と友情にに包まれています。教会のひな型です。
何としてもイエスの御前に進み出たいと願う彼らは、人様の家の屋根を打ち壊す暴挙に出ます。
ところがイエスはひと言もお咎(とが)めにならない。
その代わりに、イエスは「その人たちの信仰をみて」・「子よあなたの罪は赦される」と宣言されたのです。
律法学者たちは平静を装いながら、心で怒り狂いました。
*
イエスさまは五人の人たちと向き合いながら、二つのものを引き出されます。
一つは彼らの人間的な努力の先にある、当人達も自覚していない秘められた「真実」です。
確かに彼らには、祈りもありましたが、イエスとは目に見えない彼らの〈それ〉を引き出されるお方なのです。
*
二つ目は、「あなたの罪は赦される」とのお言葉によってしか解き放たれることのない「罪」という言葉で表現される世の縄目です。
病人に押されていた烙印がポトリと落ちます。身体的、精神的、社会的にも霊的にも解放されたのです。
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これは救い主であるイエスの命がけの言葉でした。
十字架と復活の命を注ぎ込まれた中風の人は、「起き上がり床を担いで」歩き出します。
ここには、既に始まっている愛と救いの物語の確かな予兆があるのです。end
2024年11月3日 牧師 森 言一郎
『 あなたにも一デナリオン 』
【 聖 書 】
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。(マタイによる福音書 20章9節~10節)
「ぶどう園の労働者の譬え話」は直ぐに納得できません。
早朝の6時頃から夕方の6時まで汗水流して働いた人と、午後5時から、わずか1時間だけ働いた人の受け取る報酬が同じ「一デナリオン」だというのです。「一デナリオン」は日雇い労働者の一日の平均的な賃金でした。
*
私たちが朝6時から働いていた人だとしたら、押さえようのない怒りが沸々とわき上がってきたはずです。
ただし、この人は、朝6時の時点で、「今日は大丈夫」という安心がありました。何より、夕方になれば、一デナリオン貰える約束を受けていたのです。
*
ぶどう園の主人に声を掛けられないまま夕方5時までそこに立ち尽くしていた人は、9時、12時、3時にぶどう園に向かった人の後ろ姿を恨めしく思い、家族の顔を思い浮かべるとうつむいてしまっていたはずです。
「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と問われた時、「雇ってくれる人がいないのです」と答えるしかなかった。
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ここでの「主人」とは神さまのことなのですが、この「主人」は広場に残された人が居ることがお嫌いなのです。
「私はこの最後の者にも、あなたがたと同じように支払ってやりたいのだ」と断言します。
今日、この礼拝堂にあぶれている者はいないかを探しに来て下さるのが私たちの神さまです。
私たちはいつでも、最後の者になり得る存在であり、今、人生の夕暮れ時を生きているのかも知れません。
*
でも私たちも今、神さまが主人であるぶどう園に身を置いているのですから、最後の者になってしまう私たちにも、「一デナリオンという名の恵みと祝福」が約束されています。end
2024年10月27日 牧師 森 言一郎
『エリコにて 城壁前の行進で』
【 聖 書 】
ヨシュアは、その他の民に対しては、「私が鬨(とき)の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない。あなたたちは、その後で鬨(とき)の声をあげるのだ」と命じた。 (ヨシュア記 6章10節)
神さまはエリコの城壁を前にしたイスラエルの民にヨシュアを通じて命じます。
祭司たちには「契約の箱を担(かつ)げ。その内の七人は角笛を吹いて先導せよ」と。
民に対しては「進め。町の周りを回れ」と。七人の祭司はそのとおりに角笛を吹き鳴らし、その前を武装兵が前衛として進みました。一日に一周、城壁の回りを歩く行進が六日間続いたのです。
*
実はこの時、大切な命令が民に出されていました。
それは、「私が鬨(とき)の声をあげよと命じる日までは叫ぶな。言葉を発するな」という内容でした。イスラエルの民はこれを守ったのです。
七日目、民は城壁を七周回り、ついに一斉に鬨(とき)の声をあげます。すると、エリコを囲んでいた堅固な城壁が崩れ落ちたのです。
果たして、民に沈黙が命じられていたことの真意は何だったのでしょう。
*
「主がヨルダンの水を涸らし、イスラエルの人々が渡ってきたことを、エリコの住民が恐れ、意気消沈していたこと」をイスラエルの民は知りませんでした。
そんな中、イスラエルは無言の行進を続けました。彼らはただ歩き続けていたのではないのです。
たいした武器も持たない人々にとって、無言の行進を続けることは、神に全てを委ね、お任せして祈り続けることを意味していたのです。
*
私たちの人生にもエリコの城壁と同じような壁が待ち構えていることがあります。
教会も壁にぶつかります。そんな中で、私たちは、祈りの行進を信じて続けなさい、と招かれているのです。end
2024年10月20日 牧師 森 言一郎
『徴税人の祈りに倣うなら』
【 聖 書 】
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)の私を憐れんでください。』(ルカによる福音書 18章13節)
「ファリサイ派と徴税人の譬え話」はルカによる福音書だけに記されているものです。
譬え話の形態をとってはいるのですが、日頃からイエスさまの目の前でこういうことが起こっていたのではないか、と感じるような話の展開があります。
*
譬え話が語られる前提として、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」とあります。
山浦玄嗣(はるつぐ)先生は、「御立派なのはおのればかりで、他の者どもは皆屑(くず)だと思って見下げている方々がござった」としています。
*
この「御立派な人」とはファリサイ派の人です。
この人が「感謝の祈り」を捧げていることは実に興味深いことです。
「私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と祈るのです。
何と嫌らしい人でしょう。
*
イエスの譬え話は、「そんな馬鹿な話はないだろう」と思うような結論が示されるのが常です。
ここでもそれが貫かれます。
義人としての自覚をもっていたファリサイ派の人ではなく、当時の社会において罪人(つみびと)の烙印(らくいん)が押されていた徴税人の在り方と祈りが「義」とされた。
*
神の国から最も遠い所に生きている、ということを自覚していたがゆえに、遠くに立ち、胸を打ちながら、ただ、「神様、罪人(つみびと)の私を憐れんでください」としか祈れなかった徴税人。
この人が神の国に相応しい者とされました。
*
皆さん。徴税人は、ただ憐れみを求めた人ではないのです。
「罪人(つみびと)の私を」と祈っている。
救いの原点とされる告白がここにはあるのです。end
2024年10月13日 牧師 森 言一郎
『 神の似姿に創られた者として』
【 聖 書 】
わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。(ヤコブの手紙 3章9節)
ここでヤコブが取り上げるのは「舌」です。
少し前には、「舌もまた火です。舌は、私たちの体の器官の中で、不義の世界を成しています」(聖書協会共同訳)と書かれています。
その「舌」が実にしばしば、コントロール不能に陥るのです。
*
ただし、「舌」は単独で機能しているわけではありません。
「言葉」を発するために「口」の中に「舌」があります。さらに、「舌」を動かすのは私たち人間の「心」であり「魂」なのです。
*
「舌」をもたない人は一人も存在しません。
ヤコブは、私たちも含む手紙の読み手に対して、言葉数はなるべく少なく、常に控えめな人として生きることを求めているのでもありません。
ましてや、「完全であれ」と求めているのでもないことを知りましょう。
むしろ、出来ない者であることを心底認めようではないか、と語っているのです。
*
パウロはヤコブとは正反対の位置に立つキリスト者だと考えられがちですが、ローマ書3章10節に、「正しい者はいない。一人もいない」と記したことを思い出しました。
罪人ではない者は、世に一人も存在しない、と率直に認めているのです。
*
『ハイデルベルク信仰問答』はその冒頭で、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問います。
答はこうです。
「私たちが、体も魂も、生きるにも死ぬにも、真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と語っているのです。
*
暴れ馬のように制御不能な「舌」をもつのが人間です。
しかし、私たちには、十字架と復活のキリストによる救いがあるのです。end
2024年10月6日 牧師 森 言一郎
『 あなたへの賜物を分かち合おう』
【 聖 書 】
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
(ルカによる福音書 12章20節)
ここに登場するお金持ちは大地主でした。
ある年、豊作に恵まれました。彼は「どうしよう」と独り思い巡らします。そして地主は自分に言うのです。
*
「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建てよう。そしてそこに穀物を全部、また、私の良いものを集めよう。そして、自分の魂に言おう。」と。
「わが命よ。お前は長年分の良いものを貯蔵して持っている。休め、飲め、喜べ」と。しかし、神はその夜、宣言されたのです。「愚か者よ。あなたの命は、今夜、返還を要求される」と。
*
ルカ福音書をほんの少し先に目を向けて読んでみると、イエスさまは弟子たちにこう教えられるのです。
12章25節には「あなたたちは、どんなに心配しても、自分の寿命をわずかでも延ばすこともできない」と。
また、12章31節以下では「神の国を求めよ。自分の持ち物を売り払って施せ。天に宝を積め」と語られました。
さらに進んで18章22節では、完璧を自認し、永遠の命を受け継ぎたいと願いイエスの元に走り寄った金持ちの議員に対しては、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持ち物を全て売り払い、貧しい人々に施せ。そうすれば天に宝を積むことになる」と。
*
イエスの譬え話は「神の国を生きるようになること」を教えるために語られています。
上からの賜物を溜め込むのではなく、隣り人と分かち合いながら生きなさい、と言われるのです。
*
「何もかも手放してご覧。するとかえって、何もかも携える豊かさに包まれて生きて行くことができるようになるのだよ」との招きの声が聞こえてきます。end
2024年9月29日 牧師 森 言一郎
『 惜しみなく種を蒔(ま)き続ける人』
【 聖 書 】
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 (マルコによる福音書 4章14節)
種を蒔(ま)く人はせっせと種蒔きを続けます。
もう少し要領よく、広い視野をもって、無駄な種蒔きはやめておいたらよかったのに、と思うところがあります。
少しお馬鹿なのではないかとすら感じる。
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種を「道端」に蒔きますし、「石だらけ」のところにも同様です。「茨の中」も出てきます。実に無駄の多い人なのです。
多くの種が成長できないし育たない。サタンに狙いを定められ奪われてしまうこともある。艱難や迫害があると大事なものをあっさり手放して諦めてしまう。
私たち、どこかに心当たりがあるようで居心地が悪いのです。
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注目したいのは「種を蒔く人」の涙であり汗です。譬え話自体には涙も汗も出て来ませんが、種蒔く人には愛に根ざした涙と汗があったと思います。
み言葉は「聞く耳のある者は聞け」と促します。
そして、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、30倍、60倍、百倍の実を結ぶ」と約束します。
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詩篇126編のおわりに、「涙と共に種を蒔く人」の姿があります。
「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌を歌いながら帰ってくる」とあるのです。
私はこう信じます。
「詩篇126篇で種を蒔いていたのはイエスさまであり、その救いのみ子をこの世に送られたのは天地創造の神である」と。
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「種蒔く人の譬え話」を読んであらためて思います。
キリストは地に蒔かれた一粒の麦として死なれます。
でも、イエスさまは救い主であるがゆえに、種を無駄にしてしまう私たちの救いのために甦られる。
復活の命にあずかる私たちも、いつしか、種蒔きの働きに共に仕えるよう導かれて行くのです。end
2024年9月22日
牧師 森 言一郎
『 〈ヨルダンを渡る〉ということ 』
【 聖 書 】
ヨシュアは民に言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」
(ヨシュア記 3章5節)
乳と蜜の流れる約束の地カナンに入るためにイスラエルの人々はヨルダン川を渡らなければなりません。
折しも春の刈り入れの季節。目の前のヨルダンは満々と水をたたえ、溢れんばかりです。指導者たちは宿営を巡り伝えました。
「契約の箱との距離約〈2千アンマ・900㍍〉を保って歩くならば、これまで一度も通ったことのない道であっても、あなたがたはヨルダンを渡る」と。
**************
さらに、モーセの後を引き継いだイスラエルのリーダーヨシュアも民に伝えました。
「自分自身を聖別するのだ。主に全き信頼をもって備えよう。主は驚くべき神のみ業をなされる」と。
私たちに与えられたみ言葉・ヨシュア記3章で最も強調されているのは「契約の箱」の存在です。契約の箱は「神われらと共に」を象徴的に示しています。
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ヨシュアはあらためて民に語ります。
「主の言葉を聞け。主の契約の箱があなたたちの先に渡って行く。担いでいる12部族の代表者たちの足が水の中に入ると、ヨルダンの水の流れはせきとめられ、壁のように立つ」と。
40年前、エジプトを脱出したイスラエルの民にファラオの軍勢が後ろに迫ってきたあの時、紅海の水が乾いて道が開けたのと同じことが起こるのです。その数200万人とも言われる民がヨルダンを渡る。
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これは遠い昔の出来事で終わったりはしません。
今を生きる私たちも、契約の箱に代わって、「道・真理・命」である主イエスを信じて信頼する時、神さまが備えられた道を進んでいることに気づくのです。end
2024年9月15日
牧師 森 言一郎
『 あなたを捜し求める神 』
【 聖 書 】その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
(ルカによる福音書 15章4節)
ルカ福音書15章の始まりには大きな特徴があります。
そこではイエスさまによる3つの譬え話が記されるのですが、「徴税人や罪人(つみびと)」がイエスさまの話を聞こうとしてやって来ていることが大前提となっています。
これは偶然ではありません。
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反対にイエスさまと罪人(つみびと)たちとの近い関係がおもしろくないのが、「ファリサイ派や律法学者たち」義人(ぎじん)を自認する人々でした。
とりわけ彼らは、イエスさまが日頃から「罪人(つみびと)たちを受け入れ、一緒に食事をしている」ことがゆるせなかったのです。
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そんな中、イエスさまは一人の羊飼いについて語り始めるのです。その羊飼いこそイエスさまご自身のことでした。
幼い頃のダビデは「羊の世話をしていた」とサムエル記上16章11節にあります。
また、イエスの誕生物語にも羊飼いたちの姿があります。こちらの羊飼いは住民登録が命じられる世にあって蚊帳(かや)の外に生きる人々でした。
そのような背景が前提にある中、イエスさまは「良い羊飼い」を通じて、神の愛を明らかにされたのです。
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この譬え話は理不尽です。
99匹の羊よりも迷い出た一匹が重んじられ、迷子の一匹を捜し求められるのが神のみ心であるとイエスが教えられるからです。
果たしてこれは誰のための物語なのかと言えば、自らの意志で「悔い改め=方向転換」ができない「罪人(つみびと)」の烙印(らくいん)を押されている者の救いのためです。
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私の特愛の紙芝居「まいごのメーコ」に出てくる羊飼いは危険を冒し崖を降(くだ)ります。衣(ころも)は破れ血を流しています。
それは低きに降(くだ)り、十字架に掛かられるイエスさまの予型(よけい)なのです。end
2024年9月8日
牧師 森 言一郎
『 私の舌は何のために? 』
【 聖 書 】 舌もちっぽけなものですが、使い方を誤ると途方もなく大きな害を生じます。
(ヤコブの手紙 3章5節前半 『リビングバイブル』より)
礼拝の招きの言葉として選んだ旧約の預言書・イザヤ書50章4節は「弟子」と「舌」に注目して聴きたいみ言葉です。
「主なる神は、弟子としての舌を私に与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる」とあります。
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私たちも主の「弟子」である自覚が必要です。そして誰もが例外なく「舌」を使って行うことがあります。それは言葉を発することです。
聖霊降臨の出来事が記される使徒言行録2章で「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留(とど)まった」のは、言葉が発せられて福音を宣べ伝えるためでした。
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マルコ福音書7章31節以下も読みました。
耳が聞こえず舌が回らない人の救いの場面です。この場面を他人事(ひとごと)として読んではもったいない。
私たちこそ、聞いているようで聞いていない存在で、神さまのみ心に敵(かな)う形で舌を用いていないからです。
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イエスさまは私たちが聞くべき神の言葉を聞けるように向き合って下さいます。そして、直前にありますように、私たちは「心から悪い思いが出て来る」(21節)存在であることを主はご存知なのです。
だからこそ、清い言葉を発することが出来る「舌」をもつ者になるよう導いておられます。
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その上で考えたいのがヤコブ書3章での「舌」です。
小見出しの「舌を制御する」ということが本質的な課題ではありません。
『讃美歌21』のまえがきに、詩篇102編19節が引用されていることを通して学びたいと思います。「後(のち)の世代のために このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」。
この教えを心に刻むとき、我々の生き方は自(おの)ずと定まります。end
2024年9月1日
牧師 森 言一郎
『 賛美しながら戻って来た人 』
【 聖 書 】
そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
(ルカによる福音書 17章16節)
ユダヤ人の居住地でもなく、サマリア人の居住地でもない所にイエスさまは進まれます。
そこは重い皮膚病の人たち10人が暮らす地でした。彼らは律法に従い、身を寄せ合って生きていました。犬猿の仲のはずのユダヤ人とサマリア人が共に居るのです。
**************
彼らは遠くから必死に叫びます。「イエスさま、先生、私たちを憐れんでください」と。
イエスさまは彼らに手を差し伸べて癒されたのではありません。ただ、「祭司の所に行って、体を見せなさい」と言われただけでした。彼らはその言葉に聴き従ったのです。問題はここからです。
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大きな問題に直面したのは10人の中の一人であるサマリア人でした。サマリア人の神殿はエルサレムではなくゲルジム山にありました。そこに「サマリア人の祭司」が居たはずです。
先程まで心を一つに救いを求めていた他の9人と一緒にエルサレムに向かうことはできません。10人はみんなが「途中で清くされた」とあります。
しかしこの時、その中でサマリア人だけがくるりと向きを変え、イエスさまの元に向かって走りだしたのです。
**************
このサマリア人はメガフォンを使っているかのような声で神さまを賛美しながら戻って来て、イエスの元にひれ伏します。
これは礼拝の姿勢です。
イエスさまは彼に言われたのです。「あなたは新しい人として復活して生きなさい。行け、その信仰を大切にしながら」と。
**************
この物語が教えるのは、イエスを救い主として生きる人が、どのような形で礼拝をしながら生きるのかということです。
私たちもまことの大祭司であるイエスの元に日曜日ごとに戻って来て、主を賛美しているのです。end
2024年8月25日
牧師 森 言一郎
『 娼婦ラハブはぴょんをした 』
【 聖 書 】
あなたたちの神様はただの神様じゃないわね。きっと、天地を支配なさるお方に違いないわ。
(ヨシュア記 2章11節*リビングバイブル )
当時のエリコは巨大な要塞(ようさい)都市でした。同時に階級社会が歴然と存在していたと言われます。
そんな時代に、その社会の隅っこでもあるエリコの城壁の一角で娼婦の館(やかた)の主人として逞しく生きていたのがラハブです。
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マタイ福音書1章のイエス・キリストの系図の中にラハブの名があります。聖書はキリストとラハブが無縁ではないことを告げています。
そこには福音の糸口があるのです。
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具体的にはラハブは何をしたのでしょう。
先ず、イスラエルの新しい指導者ヨシュアが二人の密偵(みってい)を送り込んだとき、二人が泊まったのがラハブの宿でした。
何日か身を寄せながらエリコを調査していた二人ですが、密告により見つかってしまいます。エリコの王は直ちに調査を命じたのです。ラハブの宿が怪しまれ、探りに来た者たちを前に、機転を利かせたラハブは二人を城外へ逃すのです。
**************
ラハブの宿には様々な人の出入りがあり、遠くの国での噂話も運ばれてきます。
ラハブは、葦の海(あしのうみ)を干あがらせ、エジプト軍からイスラエルの民を救い出した「主」と呼ばれる神についても伝え聞いていました。
彼女は、エリコの王はもちろん、国中の人々が「主」を恐れていることを知っていました。
ラハブはその「主」に希望をもった人でした。そしてその「主」を信じる生き方を選び取るのです。
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助けられた二人の密偵はラハブへの返礼としてラハブと一族を救う約束をします。
目印となったのが窓からつり降ろされたロープに結ばれた真っ赤な紐(ひも)でした。
それが、イエスさまの十字架の血潮と同じ役割を果たしたのです。end
2024年8月11日
牧師 森 言一郎
『 あなたはどこにいるのか 』
【 聖 書 】
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 (ヨハネによる福音書 8章10節)
舞台は「神殿」です。果たして神殿ではその究極において何が起こるべき場所なのでしょう。
早朝、イエスが神殿で教えられることを知っている群衆が耳を傾けます。彼らは心の奥底で求めているものがありました。
直前のヨハネ福音書7章37節に「渇いている人は誰でも私のところに来て飲め。私を信じる者は聖書に書いてある通り、その人のうちに生きた水が川となって流れるようになる」とあることを思います。
**************
そこへ、姦淫(かんいん)の現場で取り押さえられた、渇いている一人の女性が引きずり出されます。
「姦淫(かんいん)の女」と呼ばれることになるこの無名の女性を連れてきたのは「義人(ぎじん)」を自認する律法学者たちでした。
彼らの関心は、この女性に対してはひとかけらもないのです。ナザレのイエスを何としても死に追いやるための道具に過ぎない。
その事実を認識するならば、彼らこそ、この女性をもてあそんでいる存在であることに気が付きます。
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「罪を犯したことのない者がこの女に石を投げよ」という言葉を聞いた人々は、皆立ち去ります。
その後(のち)女性は、予想だにしなかった場に身を置くことになるのです。
それは、イエスさまと差し向かいになることでした。
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「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」に対して、女は「主よ、誰も」と応えます。
彼女はイエスが「主」であることを悟っていた。創世記3章のアダムとエバは、罪を犯した後(のち)、木の間(このま)に身を隠します。
その時「あなたはどこにいるのか」の声を聞きました。
私たちも、救い主の前に罪人(つみびと)として身を置き、救いにあずかりたい。end
2024年8月4日
牧師 森 言一郎
『 あなたもシャロームの回復を 』
【 聖 書 】
ヨセフは、兄弟たちに言った。「私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」
(創世記 45章3節~4節a)
パウロは、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」とローマの教会に向けて記しました。
復活のイエス・キリストも、部屋に鍵をかけ身を隠していた弟子たちの前に現れて、「あなたがたに平和があるように」と告げられた。
そして、創世記の最終盤、ヨセフ物語を通じて私たちに示されるのも、〈世界平和〉ではなく、家族の間の和解でありシャロームなのです。
**************
ヤコブの一家は、世界中を襲った厳しい飢饉を切っ掛けに、食糧を求めてエジプト行きを決意します。
彼らに必要なのは「パン」を焼くための小麦でした。しかし神さまは、彼らに対して、思いも寄らない形で、「人はパンだけで生きるものではない」ことを教育されたのです。
弟ヨセフへの妬みがきっかけで始まった家族の分断からの回復の出来事は、彼らに神の御手というものの存在を明らかにします。
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父ヤコブに対して、「ヨセフは獣(けもの)に噛み殺されました」と嘘をついていた者たちの罪が、露わになる場所が準備されていた。
実はこの場面、ヨセフにも問われていることがありました。彼がゆるさなければシャロームは起こらない。
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聖書は道を備えられたのは神であることを告げます。ヨセフの口を通じて神ご自身が語るのです。「命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになった」と。
神さまが主語となって事が動き出すとき、和解もゆるしも起こります。その神さまがキリストを世に遣わされたのです。end
2024年7月28日
牧師 森 言一郎
『 〈息・生き〉とした人生を送ろう 』
【 聖 書 】
息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。
(ヤコブの手紙 2章26節・フランシスコ会訳)
ヤコブは、全てのクリスチャンに対して、否、世の全ての人々に向けての手紙を記した人です。
「私の愛する兄弟たち」という呼びかけを多くしているのですが、2章20節では愛を込めて語調を変えます。
「ああ、愚か者よ、行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい」と言うのです。
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読みやすい英語の聖書では「愚か者」が
「O foolish man」(New King James Version・略称「NKJV」)
「You foolishman」(New International Version・略称「NIV」)となっています。
聖書原文のギリシア語も「見せかけだけの」「中身のない」という意味をもつ語が使われます。
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そんな厳しいことを語ったヤコブが、ひと段落を終えて区切ろうとするときに重要なメッセージを記します。
26節で、私たちが読む聖書新共同訳では「魂のない」とされている「魂」が、カトリックのフランシスコ会訳では「息」となっています。原語は「聖霊」を意味する「プネウマ」です。
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私は立ち止まって考えました。
私たちの教会生活で思い切り息を吸って、息を吐いてと繰り返しているのはいつだろうと。聖霊が働き、私たちを「息・生き」させてくれるのはいつなのだろうと。
答えは「賛美する時」でした。大きな声で心を込めて賛美する時、私たちは「息・生き」し始めます。
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とは言え、人生いつでも、行いの伴う生き生きとした信仰生活を送れるかと言えばそうではないのが現実です。
福音書記者ヨハネは「聖霊」を別の言葉「パラクレートス」と表現し「弁護者」「慰め主」(16:7)と記しています。
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大丈夫、私たちは弱くても聖霊によって生きていけます。
元々神さまは、息を吹き入れて人を創られたお方ですから。end
2024年7月21日
牧師 森 言一郎
『 ヨシュア 恐れるな〈畏れよ〉 』
【 聖 書 】
ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕(しもべ)モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。
( ヨシュア記 1章7節 )
モーセの後継者ヨシュア。彼は乳と蜜の流れる地・カナンを目前にしている時に、神さまのみ声を聞きます。
「立って、この民すべてと共にヨルダン川を渡り、私が与えようとしている土地に行け」と。
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まっすぐに進めば約束の地まで300㎞に満たない距離のはずなのに、出エジプトの旅は「荒れ野の40年」と呼ばれるほど時間が掛かりました。
ヨシュアは、39年前に、12部族(*民数記13章~14章を参照)の他の代表者たちと共に一度はそこに斥候(せっこう)として足を踏み入れ、良い情報も不安になる情報も得ていた人でした。
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思うことが一つあります。
ヨシュアも人の子。きっと大きな「恐れ」があったのです。ヨルダンを渡った先にあるエリコは、世界的にも知られる要塞都市(ようさいとし)としての歴史がありました。
待ち構えている人々があり、打ち壊す必要があるものについても想像がついた。
「あっちふらふら、こっちふらふら」を繰り返してきた同胞を励まし、導いていく十分な自信がヨシュアにはありませんでした。
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何もかも知り尽くしておられるのが神さまです。
ただ、「元気を出しなさい。私はあなたと共にいる」と命じられたのではない。
端的に申し上げるならば、「私が語る言葉を聖とし、恐れを捨てて〈畏れよ〉」ということを告げられたのです。
あなたに語った約束を私は必ず守り抜くから、身を委ねなさい、ということです。それが、主を畏れることなのです。
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神さまは、時空を越えて、今を生きる私たちの人生にも臨まれます。聖なるお方として約束を下さるのです。
「お言葉通りこの身になりますように」と告白し、生きて行きたい。end
2024年7月14日
牧師 森 言一郎
『 〈キリストの体〉に必要なこと 』
【 聖 書 】
24 後半 神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。・・・・・・ 27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
(第一コリント書 12章24節後半・27節)
イエスさまは「教会」というものをどのように考えておられたのでしょう。
十字架の待つエルサレムに向けての旅の始まりの場(*最北の町 フィリポ・カイサリア)で、「あなたがたは私を何者と言うのか」(マタイ16:15)と弟子たちに尋ねられます。
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ペトロは「あなたはキリスト、生ける神の子です」と応えます。その告白は正しいのです。
主は言われました。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイ16:18)と。
しかし、わずか5節先のマタイ福音書16章23節では、「サタン、引き下がれ」と叱責される始末でした。
こんなペトロで大丈夫なのか、と思わずには居られませんが、イエスさまの宣言は確かになされたのです。
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パウロが記した手紙の中には「キリストの体」という言葉が数ヶ所あります。「キリストの体」は「あなたがた」のことであり「教会」のことだというわけです。
特に、第一コリント書12章では「その体には弱く、見劣りし、不格好な部分が必要」だと語ります。パウロはそれこそが、「イエス・キリストの本物の教会」だと確信しているのです。
そして、その「教会」は常日頃から互いに「大丈夫?」と配慮し合い「それがねぇ、実は…」と言えてこそ、本物になっていくと教えるのです。
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この世から見捨てられたイエスの生涯に於いて、忘れてはならない「体」の概念があります。
「十字架と復活のキリストの体」には「深い傷も穴もある」という事実です。
そのイエスを主と告白し、教会生活を送る私たちがここに生きています。end
2024年7月7日
牧師 森 言一郎
『 ただ、寄る辺なき人として 』
【 聖 書 】
イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
(ヨハネによる福音書 4章50節)
イエスさまはサマリアの女やその地で信じた人々との出会いの後(のち)、婚礼の場での奇跡で知られるカナに再び来られます。
すると、そこへ一人の男が40㎞離れたカファルナウムからやって来ました(*おそらく馬に乗って)。
彼はガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの元で役人として仕えていた男です。
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この役人が頼りにしたのが領主ヘロデではなく、その働きが人々に伝わり始めていたイエスであったことはさり気なく重要な情報です。
王の役人が駆けつけたのは、重い病に苦しむ愛息子(まなむすこ)の救いを求めてのことでした。
彼はその立場も駆使し、様々な仕方で助けを求め、手を尽くしたのです。しかし、どうにもならなかった。藁(わら)にもすがる思いで、なりふり構わずイエスの元に進みでて、「カファルナウムに下って来て、息子をいやして下さい」と願い出たのです。
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この場面でイエスさまは「しるし」を求める者に対して辛口(からくち)な言葉で警告されます。
それどころか、「来て下さい」と願った役人に対して、「行きなさい。あなたの息子は生きる」と言われただけなのです。
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肝心なのは彼が求めたこととは違うことをイエスが命じられたことです。彼は「来ては下さらぬのか・・・」と自問したことでしょう。
しかし彼は従った。そして、その言葉が発せられた時刻に息子の救いが起こったことを、翌日、帰る途上で、良き知らせを告げに来た僕(しもべ)たちから聞くのです。
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この場面、最後まで残り続けたものは何でしょうか。答えは「言葉」なのです。
私たちもイエスの「言(ことば)」による招きを受けています。ヨハネによる福音書1章4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とあるとおりです。
寄る辺なき者として、「主の言(ことば)を信じて従う時」、み業は起こります。end
2024年6月30日
牧師 森 言一郎
『 〈行い〉と〈信仰〉以前に 』
【 聖 書 】
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
(ヤコブの手紙 2章14節)
ここでヤコブが繰り返しているのは、「行いの伴わない信仰」に対する警告です。
ヤコブ書の流れでは、「貧しさの中にある者、孤児(みなしご)や寡婦(やもめ)」を隣人として愛することができていない信仰に陥っていないかと、厳しく問われるのです。
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イエスの時代の人々の「行い」の基本は「律法」でした。
「隣人を愛せ、殺すな、姦淫するな、盗むな、父母を敬え」等の教えを守ることが基本なのです。
心を留めたいのは、主イエスが求める隣人愛は同胞イスラエルに対してだけの限定的なものではないことです。主の愛は罪人にも異邦人にも向かいます。
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ヤコブ書と反対に位置するのがパウロ書簡です。例えばガラテヤ書2章16節は従来の翻訳(*新共同訳・口語訳等)では「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」とあります。
「信仰義認」という、プロテスタントの信仰理解の根本を支えるみ言葉として大事にされてきました。
ところが、最新の聖書(*聖書協会共同訳)では翻訳が変わったのです。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実による」というのです。
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人間の信仰は不確実で心もとないけれど、「キリストの真実」はどんな時にも我々がクリスチャンであることを支えてくれる、という理解です。
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「行い」か「信仰」かの取捨選択的な考え方は私たちの道ではありません。
神さまは、まず何より、私たちがここに「ある・いる・おる」ことの肯定をもって導いて下さることに安心して下さい。end
2024年6月23日
牧師 森 言一郎
『 サマリアの女による福音の宣教 』
【 聖 書 】
その町の多くのサマリア人は、「この方が、私の行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 (ヨハネによる福音書 4章39節)
「サマリア」とはガリラヤとユダヤの間にあるパレスチナ中部の地域のことです。
歴史的にはサマリアは北王国イスラエルの首都でした。「でした」というのは、紀元前722年、北王国イスラエルが、当時の世界の大国アッシリア帝国によって侵略されたからです。
詳細は「列王記下 17章」を是非お開き下さい。侵略の裏にイスラエルの罪ありです。
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サマリアの働き手達は連行されて行きます。同時に、サマリアには多くの異民族が入って来ました。雑婚が起こり、サマリアは宗教的な純粋性も保てなくなります。
正統的なユダヤ人の自覚を持つ人々とサマリア人の間には決定的な溝が生じます。その溝はイエスさまの時代にはいっそう深くなりました。
人の罪・悲しい性(さが)が背後にあるのです。
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「サマリアの女」と呼ばれるようになる無名の人は、「主よ、渇くことがないようにその水をください」と求めました。
イエスが教えられたのは、目の前のご自分のことを「キリスト」と信じ、「まことの礼拝」を始めることでした。
そこから物語は急転します。
女は水がめを置いたまま、サマリアの人々に福音を伝えるために走りだしたのです(伝道の原点です)。
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この方がキリストであると「信じた」人々のうねりがサマリアから起こります。
キリストによる救いは、周縁に置かれ、しがらみ(「柵」とも書きます)の中に生きる人々との出会いから始まるのです。
イエスさまとの出会いは躓きを(=スキャンダル)起こします。
全てを注ぎ出される愛のお方は、既に十字架に向かい始めています。end
2024年6月16日
牧師 森 言一郎
『 あなたはそれで〈十分〉である 』
【 聖 書 】
あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。
(申命記 34章4節)
モーセは40年前の80才の時、神さまから不思議な召しを受けます。
それは「モーセよ、あなたが、エジプトにいる同胞イスラエルの民をファラオの元での阿鼻叫喚の苦しみから導き出し、乳と蜜の流れる約束の地カナンに向かえ」というものでした。
モーセは「私は何者でしょう」と躊躇しましたが、「私はある」という約束のお言葉の元、立ち上がったのです。あれから40年が過ぎます。
**************
「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」(申命記34:10)と記されるほどの働きをした人がモーセでした。
しかし、彼は、はっきりと、「私はあなたが約束の地を自分の目で見るようにした。しかし、あなたはそこに渡って行くことはできない」(申命記34:3)とピスガの山頂で断言されるのです。
実はこの神さまのお言葉。モーセは初めて聞いたわけではありません。
民数記20章にある「メリバの水の出来事」の中で、主のお言葉に対して絶対の信頼をもてなかったモーセに対して、「あなたがたを私が与える土地に導きいれることはできない」と伝えられていた。
**************
モーセは「どうか私にも渡って行かせてください」(申命記3:25)と懇願しますが聞かれなかった。
しかし、神さまはモーセに彼の人生を肯定する言葉を語られました。申命記3章26節、「主は私に言われた、『君はもはや充分なはずだ。』」(関根正雄訳)。
使徒パウロも神さまから、「私の恵みはあなたに対して十分である」とのお声を聞いた人でした。(2コリント12:9)。
**************
不足や不満を抱きがちな私たちですが、「あなたは十分である」のお言葉に心と眼が開かれる時、人生は変わります。end
2024年6月9日
牧師 森 言一郎
『 キリスト に 留まり続ける生き方 』
【 聖 書 】
あなた達は始めから聞いたことを(いつまでも)留めておかねばならない。もし始めから聞いたことがあなた達に留まっているならば、あなた達は(永遠に)子と父とに留まっているであろう。
(ヨハネの手紙 一 2章24節・塚本虎二訳)
①ハバクク書より
預言者ハバククが生きていた時代(*紀元前587年近く バビロン捕囚前)の苦悩は、ハバクク書の冒頭を読むとわかります。
「不法・災い・労苦・暴虐・争い」がうごめいています。信仰に生きようとする者たちの正義が踏みにじられている。
嘆き、祈るハバククに聞こえて来たのは、「待っておれ」という主のお答えであり、「神に従う人は信仰によって生きる」(2:24)という約束でした。
今朝私たちは、その約束を礼拝への招きの言葉として聴いたのです。
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②ヨハネ福音書より
3章の洗礼者(バプテスマの)ヨハネの言葉を聴きました。
洗礼者ヨハネとは何者であるのか、という問いが立てられる時、私はこう答えます。
ヨハネは「旧約と新約の橋渡し役を務めた最後の預言者。私はキリストではないと明言し、あの方は栄え私は衰えねばならないと証しした人」と。
事実、ヨハネは消えていきます。それでよかったのです。イエスの宣教が本格的に幕開けします。
**************
③ヨハネの手紙 一より
教会が生まれてから時が流れます。
この手紙が生まれた時代(*西暦80年~100年頃が予想されます)は「反キリスト」(2章22節)が力を振るいました。
その時、信仰に生きる者に求められたのが、「キリストに留(とど)まり続けよ」ということでした。
ヨハネ福音書15章「ぶどうの木のたとえ話」で「私につながって実を結べ」と言われるのと同根の言葉が使われます。
我々の信仰生活で考えるなら、第一に礼拝を通じてみ言葉に聴き従い続けること。第二は、み言葉そのものであるキリストが進まれるそのみ足跡に、愚直に従い続けること。
これにつきます。end
2024年6月2日
牧師 森 言一郎
『 ニコデモ 彼 は ゆっくりと 前進した 』
【 聖 書 】
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
(ヨハネによる福音書 3章3節)
ニコデモ。
彼はユダヤの社会で知らない人が居ない程に知られた最高法院の議員であり、人生経験豊かな知恵のある老人でした。
イエスさまのなさった「しるし」についての噂話が伝わって来たとき、心の奥深くに抱え続けてきた何かが激しくうずき始めます。夜、人目を避けてイエスさまを訪ねますが、何を聴けばよいのか分からなかった。
**************
イエスさまは私たちの人生の根本問題を見抜かれるお方です。
ヨハネ福音書では、唯一この場面だけで使われる「神の国」についてイエスさまはニコデモに語り始めます。ニコデモには、「神の国を生きる新しい生き方」が必要でした。
知恵とか知識、そして、律法に基づく信仰の経験値がまったく通用しないのが、イエスさまが語られた「神の国」への導きだったのです。「神の国」を見ることができるようになるには一つの奥義(おうぎ)があります。
それはイエスの言葉を完全に受け入れて信じ、新しい人として生まれ変わって従うことでした。しかし、この夜のニコデモには未だできなかった。
**************
ニコデモは、ただ一度だけ聖書に登場する人物ではありません。
私たちはその後の彼の姿から、推測も含めて、多くを考えさせられるのです。ユダヤ人指導者の同労者から「お前もガリラヤ出身なのか」(7:52)と言われ、最高法院が召集され「イエス殺しの企み」(11:47以下)が動き出したときも居合わせたに違いない。
彼は苦悩したことでしょう。
そして遂に、ニコデモは踏み出します。十字架の上で死を遂げられたイエスを引き受けた。
これはニコデモの信仰告白だったのです。end
2024年5月26日
牧師 森 言一郎
『 偏見 に さようなら 』
【 聖 書 】
わが兄弟よ、栄光の主なる我らの主イエス・キリストに対する信仰を保たんには、人を偏(かたよ)り視るな。
( ヤコブ書 2章1節・文語訳 )
ヤコブの手紙は使徒パウロが記した書簡と性質がだいぶ異なると言われます。
山谷省吾(やまや せいご)先生は『新約聖書小辞典』(新教出版社)で「行いを伴わない信仰のむなしさ」「貧しい者たちへの配慮・知恵による生活・終末的待望の忍耐などの強調」がヤコブ書には明示されると言われます。
近年、ヤコブ書の大切さを耳にするようになりました。そこには、行いの伴わない信仰生活への警告があるのです。
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新共同訳で「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」としている箇所を『文語訳』(1917・大正6年)は「イエス・キリストに対する信仰を保たんには、人を偏り視るな」とします。
最新の新約聖書の日本語訳をお一人で完訳された新約学者の田川建三先生はさらに興味深く、「栄光のイエス・キリストの信仰を、人を片寄り見る仕方で保ってはならぬ」と訳されます。
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いずれの訳からも考えさせられるのです。
私たちは外見や着ているものから、「偏見」をもって人を断罪することがしばしばあります。「あの人は○○な人だから」という「スタンプを押す」日常があります。それが私たちの罪深さの現実なのです。
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キリストはこの世の人々の「金持ちと貧乏人」「学者と無学の人」「地位が上の人と下の人」の価値判断や分類法を取り去られました。
マタイ25章では終末時の審判が語られます。そこで問われるのは「最も小さき者の一人になした信仰者としての在り方」でした。
キリストが破壊されたものを我々は再び打ち立てようとする愚行を繰り返していないか。信仰生活が厳しく問われます。end
2024年5月19日
牧師 森 言一郎
『 エゼキエルの預言と枯れた骨 』
【 聖 書 】
「これらの骨は、イスラエル国民全体を表わしている。彼らは、『我々は干(ひ)からびた骨の山になってしまった。もうお先真っ暗だ』と嘆いている。
(エゼキエル書 37章11節・リビングバイブル)
「エゼキエル」。
それは預言者の名前です。彼は、イスラエルが経験した都エルサレムの滅亡とバビロン捕囚という困難な時代に立てられた人でした。
**************
預言者はどのような時でも、神さまから預かった言葉をそのまま民に語り伝えねばなりません。
強情で、恥知らずな背信の罪を繰り返した結果行きついたのが、紀元前597年に始まったバビロン捕囚でした。
国の指導者、働き手は例外なくバビロンに連行されます。預言者エゼキエル。彼はそんなバビロンで絶望の中にある民に語り続けます。
**************
エゼキエルは「審判の預言」だけでなく「希望の預言」もします。
エゼキエル書37章では、当時、捕囚民として生きていた人々が「干からびた骨」と表現されています。
エゼキエルは骨に向かって、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語るよう命じられました。エゼキエルに力があったわけではありません。神の言葉こそが命なのです。
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やがて、谷底の骨が、カタカタと音を立ててくっつき始めます。
骨が組み上げられ、筋と肉が付き、人の形になる。けれどもその時点では、命のない人間の形をしたものが横たわっているだけでした。
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「霊よ、四方から吹き来(きた)れ。霊よ吹きつけよ」。エゼキエルは預言します。すると上からの「風」が吹き降りた。それは「神の息」でした。枯れ果てた骨が捕囚の墓から起き上がり始めます。
彼らは大きな集団となり、罪の縄目から解放され、祖国に帰る日を迎える。
古来キリストの教会はこの出来事をペンテコステに読んできました。「霊よ吹き来たれ」。「アーメン」して参りましょう。end
2024年5月12日
牧師 森 言一郎
『〈 ユダ 〉彼は私たちの仲間です』
【 聖 書 】
ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
(使徒言行録 1章17節)
イエスさまが天に昇られたのは甦られてから40日目のことでした。教会は「キリスト昇天日」としてその日を大切に覚えます。
神の右の座に居られるイエスさまは、ただ「鎮座ましますお方」ではない。讃美歌21-338②③節の歌詞にありますが、み神の元で「仲保者(ちゅうほしゃ)」として今も変わることなく、私たちのために執り成して下さっています。
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使徒言行録1章の後半には、キリストの昇天後、11人の弟子たちがエルサレムのとある家の二階の部屋に120人ほどの人々と共に集まり、心を合わせて祈る様子が描かれます。
そして、約束の聖霊を待つ中、ペトロが立ち上がって語り始めるのです。
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聖書の小見出しには、「マティアの選出」とあります。一見すると、イスカリオテのユダ亡き後(あと)、十二使徒の欠員補充だけが行われたかのように見えますが、果たしてこのことが最も大切な事柄なのでしょうか。
答えは否です。
ペトロは、「ユダのような裏切りを自分たちは二度と繰り返してはならない」と声高(こわだか)に語っているのではないのです。
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ペトロはリーダーとして、「ユダは我々の仲間であり、同じ任務を割り当てられていた(【New International Version訳・新国際版】〈 he was one of our number and shared in this ministry.〉)」と語ります。
ペトロは明確な意図をもって、「ユダは我々の掛け替えのない仲間。恵みを分かち合って生きて来た男」と説教したのです。
自分達はユダとさして変わらぬどころか、より罪深く、ユダを孤立させ、友を見捨ててしまったことに気付いた。
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ユダに代わる使徒を選び、神の国の福音を宣べ伝える前に彼らは悔い改めます。
聖霊はここに降(くだ)るのです。end
2024年5月5日
牧師 森 言一郎
『イエスさまに従う生き方』
【 聖 書 】
このように話してから、(イエスは)ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。
(ヨハネによる福音書 21章19節)
お好きな方が多い讃美歌459番・「飼い主わが主よ」はこんな歌詞で始まります。「飼い主わが主よ、まよう我らを 若草の野べに ともないたまえ」。
この賛美歌の背景には詩篇23篇1節の「主は羊飼い」があります。そしてイエスさまはヨハネ福音書10章で「私は良い羊飼い」と繰り返されます。
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また、マルコ福音書6章34節の「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」というみ言葉も思い起こします。
「私たちは羊」であり「イエスさまは羊飼いで牧者」であることを知っているのです。
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ティベリアス湖畔で復活のイエスさまと一対一で向き合ったシモン・ペトロは3度同じ言葉を聞きます。
「お前は私を愛するか」という問い掛けと同時に、「私の羊を飼いなさい・世話をしなさい」というご命令を聞くのです。
このお言葉は、私たちがクリスチャンとして生きて行く上で重要です。
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ある時イエスさまは、律法の専門家から、「最も大切な掟は何ですか」と問われます。するとイエスは聖書を引用しながら、第一に(申命記6章5節)「あなたの神、主を愛せよ」と答えられたのです。
さらに第二は、「あなたの隣人を愛せよ」(レビ記19章18節)だと教えられました。
**************
この場面の最後で、ペトロはイエスさまから、「私に従い」なさいとキッパリと命じられます。
イエスさまの結論は実にこれに尽きるのです。
そもそもこれはペトロらに対する「召しの言葉」(マルコ福音書1章17節)でした。
**************
イエスさまは愛しているけれど、「罪人=隣人」のお世話をすることは遠慮します、というのは成り立ちません。
主を愛することと隣人を愛することは裏表(うらおもて)のものだからです。
大丈夫ですか?end
2024年4月28日
牧師 森 言一郎
『 〈お魚〉も大切に頂きましょう 』
【 聖 書 】
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
(ヨハネによる福音書 21章13節)
「ティベリアス湖畔=ガリラヤ湖」に戻って来た7人の姿が見えます。
そこは、彼らの人生において、二度と起こらない激動の日々を見つめ直すためにどうしても必要な場所でした。
シモン・ペトロが「ワシは漁に出る」と言葉にしたとき、居合わせた6人も続かない理由はありません。私が想像するに、彼らはこの頃、口に入れるものが無くなりかかっていたのではないか、と思うのです。
**************
復活のイエスとの出会いはいつも思いも依らぬ形で起こります。それは我々の人生に於いても同様です。
うまく行かない前夜からの漁にそろそろ見切りをつけようとしていた時、岸辺から声が聞こえます。
**************
それは「漁はどうだぁ」というものでした。
「おめぇは、目がついてんのかぇ」と言いたいところでしたが、ぐっとこらえて「ねぇよ」と吐き出します。
声の主(ぬし)はさらに、「右だ、右」と命じるではありませんか。
徒労のまま終えるのを避けたい彼らは、「けっ、なら最後に」と右舷(うげん)に網を投げます。
すると驚くべき大漁となったのです。
**************
陸(おか)での炭火を囲んでのパンと魚の朝食は極めて象徴的な場面です。
「魚」は初期キリスト教徒たちにとってキリストを示すシンボルの意味を越えて、キリストご自身を現すものだったからです。
ヨハネ福音書6章の五千人の給食の場面で、イエスは「パンだけでなく魚も同じように」祝福して分け与え、人々は満腹しました。
7人はこの朝の主との再会の場面でも「パンと魚」による食卓で養われたのです。
**************
ここには、お言葉を信じて、従い行く者たちへのゆるしと励ましがあります。end
2024年4月21日
牧師 森 言一郎
『 八日の後(のち)にもイエスは 』
【 聖 書 】
さて八日の後(のち)、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
(ヨハネによる福音書 20章26節)
甦(よみがえ)りの主イエスと10人の弟子たちとの再会が起こったのは、「週の初めの日の夕方」であったと聖書は告げます。
それはユダヤ教の「安息日の翌日」という意味ですから、今の「日曜日」ということです。
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「ユダヤ人を恐れて」、エルサレムのとある家に身を隠していた彼らの前に現れたイエスさまは、深い傷のある手とわき腹をお見せになりました。
心の準備がなかった弟子たちが、「傷のある主を見て喜んだ」という描写はリアルです。
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「週の初めの日」、トマスだけは仲間たちと一緒に居りませんでした。かつて仲間たちに、「私たちも行って一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)とまで語っていたトマスにとって、主イエスを「見捨てて逃げてしまった」ことは受け入れがたい事実なのです。
トマスが仲間たちの処(ところ)に遅れてやってきた時、「私たちは主を見た」と言われても、これもまた彼にとって受け入れられないことでした。
だから、「釘跡に指を入れて確かめない限り信じない」とトマスは言い張ります。
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ところが、「八日の後(のち)」、トマスを含む11人の前に再びイエスさまはお姿を顕されたのです。
ここには深い意味があります。
私たちの信仰生活に於ける「日曜日」そして「主の日の礼拝」とは、実は、この深い傷のあるイエスさまとの再会の繰り返しの場だからです。
そこでイエスさまは私たちに何度でも出会い直し、息を吹き入れて下さいます。
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聖書には描かれていませんが、トマスもまた、「息を吹きかけられた」と私は信じています。end
2024年4月14日
牧師 森 言一郎
『 ベタニア村にも福音が届いた 』
【 聖 書 】
そして、墓から帰って、11人(の使徒)とほかの人皆に一部始終を知らせた。 (ルカによる福音書 24章9節)
マグダラのマリアを中心とする女性の弟子たちは、墓で出会った二人の若者(=天使)からの、「あの方は、ここにはおられない」の言葉を直ぐに受けとめることができたわけではありません。
マルコ福音書16章によれば、「墓を出て逃げ去り、震え上がり、正気を失っていた 」のであり、「恐ろしかった」のです。思考停止の硬直状態でした。
でも、彼女たちは初めの一歩を踏み出したのです。
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当時の社会でも、「七つの悪霊を追い出して頂いた」(ルカ福音書 8:2)というマグダラのマリアのような女性の弟子たちの存在は軽く扱われ、その言葉も信頼されていませんでした。
事実、空っぽの墓の証言を聴いた11人の使徒たちは、その言葉を、「たわごとと思い、信じなかった」のです。
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私たちはここで、一つの思い込みから解放される必要があります。
復活の出来事が伝えられたのは「11人」だけではない!聖書には、「ほかの人皆に」とあるのです。ゴルゴタの丘への道では、「女性たちが大きな群れを成してイエスに従っていた」(ルカ福音書 23:27)とあります。
つまり、福音書には名前が出てこない無名の女性たちも、散り散りになって、一斉(いっせい)に、都エルサレムの周辺に居た11人以外の仲間や友人たちにも、「主の復活」を告げたのです。
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ヨハネ福音書11章に登場するエルサレムの東3.2㎞に位置するベタニア村に暮らすマルタ・マリア・ラザロの3人のきょうだいたちにも、主の甦りの福音が届きました。
3人は、イエスさまによる、「私は復活であり命である」のお言葉(ヨハネ福音書 11:25)の成就を知ったのです。end
2024年4月7日
牧師 森 言一郎
『 愛ある〈おとがめ〉 』
【 聖 書 】
その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
(マルコによる福音書 16章14節)
マルコ福音書の最後は不思議な〔〕(かっこ)で括(くく)られています。直前までのマルコの筆のタッチと較べて大きな違いがあります。それは注意深く読むと私たちでも感じる程です。
私自身はここを初期キリスト教会のクリスチャンの貴重な証しと考えます。
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ここで強調される形で3度繰り返される言葉があります。11人の弟子たちがイエスさまの復活を「信じなかった人である」ということです。
食事をしていた11人の弟子たちにイエスさまが姿を顕(あらわ)して「おとがめ」になったのは、彼らが「不信仰」で「かたくな」だったからだというのです。
**************
「おとがめ」という日本語は、我々も時に耳にする言葉ですが、日本語の聖書の訳としてはオブラートに包んだ遠慮気味なものです。
実際は、「非難する」「なじる」「問いただす」という語です。イエスさまは彼らに対して真っ正面から雷を落としておられるのです。
パウロがエフェソの教会に向けての手紙の4章13節で「愛に根差して真理を語り」と記したことを思い起こします。
そしてまた、シモン・ペトロに対して「サタン、引き下がれ」と言われたイエスさまのお姿を思うのです。実に、厳しさを伴う愛は、私たちの希望です。
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愛する者を叱り飛ばされる主イエスは、やがて彼らに聖霊の力をお与えになり、福音を宣べ伝える使命をお与えになるのです。
ここに、ゆるされた者である私たちへの愛がはっきりと見えます。end
2024年3月31日
牧師 森 言一郎
『 アリマタヤのヨセフの新生 』
【 聖 書 】
アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
(マルコによる福音書 15章43節)
イースターのみ言葉です。
「復活」を祝うだけがイースターではありません。「アリマタヤ出身のヨセフ」という議員の「初めの一歩」から「復活」には「新生」という一面があることを学びたいと思います。
彼は、十字架の上で死んで捨てられたイエスさまをピラトから引き取り、自分が造った墓に納めるのです。
人生を変えていく一歩でした。
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「アリマタヤのヨセフ」はマルコ福音書では「議員」とありますが、マタイによる福音書27章では「金持ち」だと紹介し、さらに「この人もイエスの弟子であった」とあります。
一方、マルコ福音書とルカ福音書では、「神の国を待ち望んでいた」というのです。
ヨセフはこれまで、公(おおやけ)にイエスの弟子であることを明らかにしたことがなかったのですが、ここから新しい道を歩み始めました。議員の地位も、お金も手放したことを意味する行動です。
古いヨセフはここで死にました。世の人が知るヨセフではなくなった。
では、彼は全てを失ってしまったのでしょうか。答えは否でした。
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パウロは「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ロマ10:10)と語りましたが、ヨセフの信仰告白がここにあります。
十字架の出来事はヨセフの妨げを打ち砕きました。
そしてさらに、彼が微塵も予想していなかった「主の復活」が、さらに「ヨセフの新生」を生みだしたのです。
ヨセフは「何もかも手放した」が故に「何もかも携える人」となりました。主の復活ハレルヤ!end
2024年3月24日
牧師 森 言一郎
『 囲いの外へ ゴルゴタのイエス 』
【 聖 書 】
兵士たちはイエスの十字架を無理に担(かつ)がせた。そして、イエスをゴルゴタという所 ―― その意味は「されこうべの場所」―― に連れて行った。
(マルコによる福音書 15章21節後半~22節)
私は「飼い主わが主よ」という賛美歌が好きです。
詩編23篇1節の「主は羊飼い」というみ言葉や、ヨハネ福音書10章7節以下「私は良い羊飼い」を思い起こします。ヨハネによる福音書では、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と続くのです。
もちろん「羊飼い」とはイエスさまのこと。このことを前提にマルコ福音書15章を味わいます。
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ピラトの元で十字架での処刑が決まったイエスさまは、鞭に打たれた後に、「されこうべ=頭蓋骨」を意味するゴルゴタへ十字架を負わされて向かいます。
ゴルゴタはエルサレムの中心ではなく城門の外の丘にあります。
そこは、さらし者にされる罪人の行きつく処(ところ)ですが、イエスさまがゴルゴタの丘の上で命を捨てられるのは「良い羊飼いだ」からです。主は罪人であることから逃げ出さない。罪人たちと共に終わりの時まで共に居られます。
**************
ゴルゴタへ向かう途中の坂道。イエスさまはキレネ人シモンの力を借りなければ一歩も進めない程に弱り果てました。
十字架は重いのです、その重さは、十字架の大きさゆえではありません。エルサレムに入城された子ろばに乗ったイエスを、自分たちの目的達成のために歓呼と共に枝を振って歓迎した人々が手にしたひと枝一枝、人々の罪の重さがイエスを苦しめた。
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十字架に留まり続けたイエスさまは、罪人と共に死に、罪人たちと共に甦(よみがえ)られます。神の愛はここに極まりました。
神を信じる者は決して独りぼっちではありません。end
2024年3月17日
牧師 森 言一郎
『 徹底して〈ぼんくら〉であること 』
【 聖 書 】
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
(マルコによる福音書 15章5節)
バッハのヨハネ受難曲を家で聴くことがあります。その際、私は、「何かここの辺り、気持ちがいい。燃えてくるなぁ」と感じたのが、ユダヤ人たちの合唱・「イエスを殺せ」の歌声の場面だと気付いたことがあります。わが心の闇を見ました。
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ローマ皇帝から派遣されたユダヤ・イドマヤ・サマリア地方の総督ポンテオ・ピラト。日頃彼はローマ皇帝からの呼び出しにも即応できるようにカイサリアに身を置いていましたが、ユダヤの祭の時期にはエルサレムの総督官邸に兵士と共にやって来ました。そして人気取りのために罪人を恩赦し釈放するのです。
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千代崎秀雄牧師は『型破り聖書日課 聖書の人物365人』(一粒社)の中で、ピラトについて、冒頭の一行目で、「ピラトは、ぼんくらではなかった」と言い切っています。
彼は物事の見通しが効かないような馬鹿者ではないのです。むしろ、彼は思慮深くおもんぱかることが出来る人だった。イエスについては、罪を見いだせないことに気付きましたし、ユダヤ人の中でも指導者の立場にあった者たちの腹黒さも知っていました。
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この日結局彼が釈放するのはバラバでした。バラバはローマ支配による圧制からの解放を目論んだはずの中心人物ですから、本心ではバラバの釈放などしたくなかったのです。
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私たちに必要なのは、小賢(こざか)しさなどではありません。
むしろ、ピラトとは逆にぼんくらである事すら求められているのかも知れません。イエスはぼんくらを極め、十字架につけられました。end
2024年3月10日
牧師 森 言一郎
『 遠く離れて従ったペトロ 』
【 聖 書 】
ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。
(マルコによる福音書 14章54節)
ユダに引き連れられた人々に捉えられたイエスは最高法院に連行されます。
マルコは、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ出してしまった」と報告をする一方、ペトロがイエスの後を追ったと告げます。しかし彼は今、イエスさまから「遠く離れて」いるのです。
イエスさまのお側(そば)で、手となり足となることこそが、人生の喜びだったはずのペトロは、大祭司の中庭で出くわした人たちの側(そば)で、薄明かりの役目も果たす焚(た)き火にあたるのです。
**************
創世記3章で「食べてはならない」と神さまに命じられていた実(み)を口にしたアダムとエバが、「神の足音を聞いて恐れ、神の顔を避け、木の間に隠れていた」のと何も変わりません。
そしてまた、ルカによる福音書15章11節以下にある、「遠い国に旅立ち」放蕩(ほうとう)の限りを尽くしたあの弟息子と父の姿を思うのです。
居場所を失った彼が最後に故郷へと向かった時、「まだ、遠く離れていた」のに父親は息子を見つけ、走り寄り、抱擁(ほうよう)します。
**************
数時間後、ペトロは大祭司の中庭で、「今夜、二度鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう」と言われた主のお言葉が、預言通りになってしまう、人生の大敗北を喫することになります。
マルコが告げるその時のペトロの様子を、ある英語の聖書は、「he broke down(*break down の過去形) and cried(*「cry=泣く」の過去形)」と表現します。
「break down」には「崩壊する、機能停止、駄目になる」という意味があります。
しかし神さまは、ポンコツに成り果てたペトロを用いて、やがて教会をお建てになるのです。end
2024年3月3日
牧師 森 言一郎
『 一筋に 書き続けたわけ 』
【 聖 書 】
弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
(マルコによる福音書 14章50節)
とある部屋でのこと。
イエスさまは弟子たちと共に過越(すぎこし)の食事を始められました。
ところがやがて、過越(すぎこし)の式文にはないことを教え始められたのです。パンを取り、「取りなさい、これは私の体である」と謎めいたことを言われます。
さらに続けて、杯(さかずき)を高くあげ、
「これは私の血、契約の血である」と宣言されました。弟子たちはあっけにとられます。
ましてや、これから起こる十字架の死の出来事など、微塵も想像することができません。
**************
弟子たちは「あなたがたは皆つまずく」と言われても、「自分だけは大丈夫」と思いました。
ペトロは、「今夜、鶏が二度泣く前に私を三度否む」と突き放されますが、かえって強い決意をいだき、「私だけは大丈夫です」と言い張ったのです。
結果として、「祈っていてくれ」と命じられた彼らは、誰一人、目を覚ましていることができません。
**************
イエスさまは、「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」と言われ、ユダに引き連れられてくる一団の前に進み行かれます。
この時、強い決意をもって、「私だけは、終わりまで主に従います」と誓った弟子たちはどうしたのか。
結果は惨めでした。
何もかも捨ててイエスに従ってきた弟子たちでしたが、今度は、イエスさまのことまで捨てたのです。それが人間のあからさまな現実でした。
**************
最初の福音書記者マルコは、このような弟子たちの姿を、ためらうことなく赤裸々に描きます。少しも取り繕わない。
私はここに福音が福音としての力をもって躍動し始めていると思うのです。end
2024年2月25日
牧師 森 言一郎
『 フィリポ・カイサリア にて 』
【 聖 書 】
私の後(あと)に従いたい者は、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。
(マルコによる福音書 8章34節)
イエスさまはこのお言葉をフィリポ・カイサリアで語られました。イエスが宣教に出かけられた場所で最も北に位置する町です。
カイザルとも呼ばれたローマ皇帝にゴマをすり、領主フィリポの名と合わせた名前の地でした。この世の知恵と権力が物言う処(ところ)で、顔を固めて十字架に向けて歩き出されるイエスは、弟子たちの覚悟を問われます。
**************
マルコ福音書の1章では、「我に従い来たれ」との招きを受け、漁師たちが網(あみ)を捨ててイエスに従いました。
彼らはイエスさまのお側で教育を受け、伝道の旅に遣わされ、経験を積んだのです。
**************
そして直前には、世の人々の噂ではなく、「あなた方は、私を誰だと言うのか」と問われます。
ペトロは代表して「キリストです」と答えました。それは正しい答えなのです。
しかし、主であるイエスが苦しみを経て、死んで三日目に復活すると語り始めた時、ペトロはイエスを脇へ引き出して諫(いさ)めます。
すると、「サタン、引き下がれ」と叱り飛ばされたのです。
救いの道はまだ見えていません。
**************
ここには、クリスチャンとはどのような人のことなのかについての結論があります。
「自分の十字架を背負って従う」覚悟が必要です。自分の運命的な重荷のことだけが言われているのではない。
時が良くても悪くても、キリストの苦しみにあずかり、イエスさまが担われようとされた時代の重荷、隣り人(びと)の重荷も含めて、悩み苦しみながら生きて行く人。
それがクリスチャンなのです。end
2024年2月18日
牧師 森 言一郎
『 マルコ福音書 の はじめに 』
【 聖 書 】
わたしについて来なさい。
(マルコによる福音書 1章17節)
福音書を最初に生みだしたのはマルコでした。それより前にパウロの手紙は存在しましたが福音書はなかったのです。
マルコ福音書の顕著(けんちょ)な特徴として「クリスマスの出来事がない」ことがあげられます。マルコ福音書が全16章とコンパクトな理由もそこにあります。
マルコはイエスさまの誕生の物語の中に、救いの福音の本質を示すものはないと考えた、と申し上げてもよいと思います。
**************
マルコが伝えようとした福音の根幹にあるのは、きょうのみ言葉の「悔い改めて福音を信じる」ということです。
「悔い改め」の前には「誰でも」が補われるべきでありますし、「信じて」のあとには「従う」ことが求められます。
イエスさまの宣教の第一声の後にあるのは、ガリラヤ湖畔に生きていた無学な四人の漁師たちへの招きでした。
**************
2月4日、上島 一高(かみじま かずたか)先生がお出でになった時の説教題は、『何もかも手放し 何もかも携(たずさ)えてゆこう』でした。
私はその説教題に心打たれ、いつか同じ題で説教できるようになりたいと思うようになりました。
漁師として生きていた彼らは、生業(なりわい)を支えてきた網を手放したのです。
そんなことをして、生きてゆけるのでしょうか。実に、「悔い改めて福音を信じる」とは、「何もかも手放し、何もかも携(たずさ)えて生きてゆく」ことなのです。
**************
イエスさまに従い歩みだすとき、いつしか私たちは新しくされます。そこに必ず変化が生じるのです。
山あり谷あり、裏切り、逃げ出す私たちです。十字架と復活も起こります。
でも、「イエス・キリストの福音の初め」は、ここが先ずはスタートなのです。end
2024年2月11日 牧師 森 言一郎
『 さすらう者へを愛する神 』
【 聖 書 】
私の父はさすらいのアラム人でした。(申命記 26章5節 新改訳 2017より)
神さまはモーセを通じて、間もなく約束の地・カナンでの暮らしが始まろうとしている民に対して「礼拝」の根本をお示しになります。
先ず、教えられたのは「初穂」を捧げることの大切さであり、そこに伴う「報告」という形での〈祈り〉でした。
**************
「信仰告白」は礼拝の中で欠かせない要素です。
出エジプトの民は、そこに三つの「告白」を含めるように教えられます。具体的には「選び」・「救い」・「約束の成就」の三つでした。
第一の「選び」について「私の先祖は、さすらう者であった」という回顧を伴う感謝の告白があります。
さらに、第二と第三の「救い」と「約束の成就」は密接に関係するものです。天にまで届くような人間の叫びと苦しみを見過ごしにはなさらない神は、「労苦からの解放」と「嗣業の地」をくださるのです。
**************
これら三つが含まれた「信仰告白」の土台にあるのは、今日(きょう)の申命記26章18節にある「宝の民」として慈しんで下さる神の愛です。
「宝物」として愛されるお姿は、先ず、出エジプトが始まって間もない、シナイ山での契約の言葉に見られます。
出エジプト記19章5節で「あなたたちは全ての民の間にあって私の宝となる」と語られるところに起源があります。
**************
「宝」として愛される幸いを知った者は、もはや約束の地において自己本位に生きることをしません。
宗教者に専念し、生産手段を持たない「レビ人(びと)」。そして「寄留者・孤児・寡婦」と共に生きるのです。
私たちの礼拝から始まる暮らしはそのような視点を見失ってはいないでしょうか。受難の始まりの直前、主イエスはレプトン銅貨二枚を捧げた女を尊(たっと)ばれました。end
2024年1月28日 牧師 森 言一郎
『 み言葉を生きる人へ 』
【 聖 書 】
み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(ヤコブの手紙 1章22節)
聖書は生き方上手になるための〈ハウツー〉が示される単なる手引書ではありません。
ヤコブが語るように、「人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒(おこ)るに遅くあるべきです」という教えを社会生活の中で実践できるならば、少しは良い人になれるかも知れない、と考えてしまいそうになります。
でも、それは違います。大前提があるのです。
**************
ルカ福音書19章にある徴税人の親分「ザアカイの物語」を思い起こしました。彼は罪人(つみびと)の烙印を押されていた人でした。
エリコにやってこられたイエスさまは、いちじく桑の木に登っていたザアカイの下(もと)にやって来て、「今日はあなたの家に泊まらねばならない」と仰ったのです。
**************
ザアカイは木から急いで降りて来てイエスさまを「お迎え」します。聖書にはザアカイとイエスさまがどんな風に時を過ごしたのかはひと言も触れられていません。
でも、その後のザアカイの決心の様子を見ると、彼はイエスさまに「自らの苦しみや汚(けが)れ、あふれる程の悪を、全て聴いて頂いた」のだと思います。
そのことが「み言葉であるイエス」を人生の真ん中に迎え入れるための大前提なのです。
**************
ヤコブは続けて「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人」について語ります。
「律法」は「み言葉」と置き換えて理解します。それをしっかりと「守る」(*パラメノー)とは、「側(そば)に留(とど)まる」「近くに居続ける」「固守する」ということです。
み言葉である主イエスから離れずに留(とど)まり、側(そば)に在(あ)り続ける生き方が求められます。
その第一歩は礼拝で示されるみ言葉に聴き従うことです。end
2024年1月21日 牧師 森 言一郎
『〈カナの婚礼〉から始まったこと』
【 聖 書 】
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
(ヨハネによる福音書 2章5節)
「ガリラヤのカナの婚礼」は、イエスさまによって「水がぶどう酒に変えられた最初のしるし」の場面として知られます。
これはヨハネ福音書だけに収められている不思議な出来事です。
**************
この場面を読むとき、心に留めたいことが一つあります。それは「最初のしるし」が起こる文脈です。
私が大切だと考えるのはイエスさまに従いだして間もない弟子たちがそこに居合わせている点です。
アンデレ、やがてペトロと呼ばれるシモン、フィリポとナタナエルまでもが祝いの席に招かれ、結婚式ならではのご馳走やぶどう酒を口にしました。
**************
弟子たちは婚礼の席に不可欠な「ぶどう酒」が足りなくなった時の、マリアとイエスの会話も知っていたと思います。
何より、主イエスの「水瓶(みずがめ)に水を一杯に入れなさい」というお言葉に従った召し使いの働きも、弟子たちの心に深く刻まれたはずです。
イエスさまに従いだした弟子たちは訓練を受け始めているのです。彼らはここから、様々なしるしを直(じか)に見ながら育てられて行きます。
**************
大きな「清めの六つの水がめ」を縁(ふち)まで満たすために「召し使いたち」は黙々と仕えました。その無言の奉仕の先に「最初のしるし」が起こるのです。
彼らの有り様は私たちの教会生活の中での様々な奉仕者の姿と重なります。
受胎告知の場面で、「お言葉通り、この身になりますように」と告白したマリアも同様です。
私たちには黙々とイエスさまのお言葉に従う生き方が求められているのです。
**************
弟子たちはやがて目が開かれます。
時が満ちた時、十字架に掛かってご自身を捧げ尽くされた主イエスこそが最大の奉仕者であったことに。end
2024年1月14日 牧師 森 言一郎
『 〈 背信の大罪 〉を越えて 』
【 聖 書 】
この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず足が腫れることもなかった。(申命記 8章4節)
出エジプトを果たし、約束の地カナンを目前にしているイスラエルの民に対して、神さまはモーセを通じて、「荒れ野の40年」の旅路の意味を考えさせる時をもたせます。
その40年は、「あなたの心にあることを知り」「神の言葉を守るかどうか」を「試す」「訓練の時」だったと告げるのです。
**************
私はこの箇所を読むとき、ネヘミヤ記9章と合わせて読んでみたいと思いました。
旧約の民の歩みを俯瞰(ふかん)し、出エジプトの民の歩みを、私たちキリスト者の問題として考えさせてくれる箇所だからです。
**************
ファラオの追跡を逃れた民は飢えと渇きに直面してつぶやきました。
彼らは実に安易に、「エジプトの苦役に戻ろうと考え」、不安になると、「牛の像を鋳て造り、エジプトから救ってくれた神だ」と恥ずかしげもなく称する民でしたが、神さまは「命のパンであるマナ」を降らせ荒れ野を導き行かれました。
ネヘミヤ記9章だけで用いられるみ言葉に「背信の大罪を犯す」(18節、26節)があります。
神さまは忍耐し、導かれたのです。
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ネヘミヤ記9章21節に今日(きよう)の申命記8章4節とよく似たみ言葉、「四十年間、あなたが支えられたので彼らは荒れ野にあっても不足することなく着物は朽ち果てず足も腫(は)れることがなかった。」があります。
さらに、ネヘミヤ記9章では「しかし」という言葉が何度も繰り返されることにも気付きます。
**************
「聖書の民」とは、背きの大罪を犯し、神の憐みを直ぐに忘れてしまう人のことなのです。
神が御子を世に遣わされた理由がここにあります。
これが私の救いのためであることを信じる人は、新しい道を生き始めます。悔い改めて、福音を信じましょう。end
2024年1月7日・新年礼拝 牧師 森 言一郎
『 ナザレの若枝 イエス 』
【 聖 書 】
「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(マタイによる福音書 2章22節~23節)
マタイは旧約聖書との関係を重んじる人でした。だからこそ1章の「系図」が、マタイ福音書には必要でした。
旧約聖書に精通しているユダヤ人に、マタイはイエス・キリストによる救いの到来を説得力のある形で伝え始めたのです。
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占星術の博士たちへのイエスの公現後、ヨセフ・マリア・イエスの「聖家族」は、お告げによってエジプトへ逃避します。ヘロデ大王による二歳以下の男児の虐殺の狂気をかいくぐったのです。
そして、再びお告げによってユダヤに戻って落ち着くのが、旧約にはその名が一度も出てこない「ナザレ」でした。
**************
大変遅ればせながら、去年のクリスマス、私はマタイが特に重んじている『イザヤ書』の中に、「ナザレ」が秘め置かれていることを知りました。
まず、11章1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝(わかえだ)が育ち」とあるのです。この「若枝」が重要です。「若枝」の原語はヘブル語で「ネーツェル」と言います。その語根は確かに「ナザレ」なのです。
**************
さらに私は、この「若枝・ネーツェル」が「動詞形・ナァツァル」で記され、イエスの誕生・救いを告知していると読める預言の言葉が、イザヤ書48章6節にあることを知ったとき、心が躍りました。
そこには「私は今から、新しい事、あなたの知らない隠された事をあなたに聞かせよう」とあるのです。
イエスこそ秘められた救いの成就・到来です。
**************
ナザレの「若枝」が「隠された事」ではなく、世に現れ、「私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)という存在として世に告知され始めたのがクリスマスの出来事なのです。end
2023年12月31日・歳晩礼拝 牧師 森 言一郎
『 捧げるクリスマスの喜び 』
【 聖 書 】
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 (マタイによる福音書 2章10節~11節)
救い主の到来は先ず、星の観測を熱心に行っていた「東方の博士たち」に届きました。「東」とは異邦の地を意味しています。聖書の舞台であるユダヤ地方ではなく異邦人にその知らせが届いたのです。それは神さまの必然でした。
博士たちは聖書の原文では「マゴス」で、「占い師」「魔術師」を指す語が使われます。旧約の律法に照らし合わせると、彼らは忌み嫌われる「罪人」なのです。でも、救いは彼らを通じて明らかにされます。
**************
この異邦人に告知される救い主の誕生の事実は、マタイ福音書1章で、み使いが夢の中に現れてヨセフに知らせた言葉に連動しています。「この子は自分の民を罪から救う」の「自分の民」とは異邦人が含まれるのです。
復活のイエスがマタイ福音書の最後で弟子たちに告げた宣教命令に、「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい」とあります。「全て」には例外はないのです。
**************
博士たちが幼子イエスにひざまずいた時、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とありました。クリスマスの意義を考える時、彼らの姿勢に倣うべきことがあることに気付くのです。
**************
アメリカの作家O・ヘンリーの珠玉の短編『賢者の贈り物』の最後に博士たちを「賢者」と紹介しますが、その前に、年若い貧しき夫婦が自分に与えられた最も大切なものを互いのために手放す物語があります。
そこには彼らの献身があるのです。
今年のクリスマス、あなたは救い主イエスのために何を手放し、捧げましたか? end
2023年12月24日 牧師 森 言一郎
『 ベツレヘムから〈荒れ野〉へ 』
【 聖 書 】
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた。
(ルカによる福音書 2章6節~8節)
マルティン・ルターの『クリスマス・ブック』という本があります。皇帝アウグストゥスの勅令を受け、ヨセフがわざわざ身重のマリアを連れてナザレからベツレヘムへ向かった理由についてルターはこう語ります。
「自分の留守中マリアと一緒に暮らして面倒をみてくれるように人を頼むことが出来なかった。ヨセフの貧しさの程も察せられる」と。彼らは本当に小さく貧しかったのです。
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ベツレヘムの宿屋でヨセフとマリアを受け入れなかった人たちが居りました。
私たちは、自分ならばそんな可哀相なことはしない、と考えてしまいそうです。
でも、我々は、生まれ来るみどり子が救い主イエスであるということを知っているのです。だから別の態度をとれると思うのではないか。
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キリスト降誕の告知はベツレヘムから一転します。寒空の「荒れ野の果て」で、夜通しの番を凍(こご)えながらしている羊飼い達が登場するのです。
救いの到来の告知が「荒れ野」であることには深い意味があります。聖書の中の一番最初の「荒れ野」はどこに描かれているのだろうかと思い、探してみました。
ありました。
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表現は全く異なりますが、最初の書・『創世記』で「光あれ」の言葉が発せられる「地」は「混沌」だった。『新改訳 2017』の訳では「茫漠(ぼうばく)」です。
「茫漠(ぼうばく)」の意味をていねいに調べました。「存在感が無く、有るか無いか分からない、光が当たらない地」のことでした。
キリストはそこを選んでお出で下さったのです。end
2023年12月17日 牧師 森 言一郎
『 眠りから起き上がった人 ヨセフ 』
【 聖 書 】
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
(マタイによる福音書 1章24節~25節)
もしもイエスの父親の役目を担うことになるヨセフが言葉の人であったならば、彼の語ったことが四つの福音書のどこかに、一つくらいは記録されていたはずです。
しかし、ヨセフの言葉は聖書には何一つ残っていません。マリアの聖霊による妊娠の報に触れ、彼は逡巡(しゅんじゅん)したのです。
彼が身につけてきた正しさの基準、即ち、「律法・教え・戒め」に照らし合わせると、身動きできなかった。
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ところがこのとき、「聖霊」が働きました。それは「正しい人ヨセフ」の根幹を揺すり動かす力でした。
この箇所、原文を直訳すると、「ヨセフが眠りから立ち上がると」という訳が可能です。「眠りから覚めた」とは書かれていません。彼は「起き上がった」のです。
「聖霊」によってヨセフに灯された、確かな力、ともしびが見えます。ヨセフの外見は何も変わりません。
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しかし、ヨセフはこれから先の彼を規定する新しい正しさを聖霊によって身に帯びたのです。これまでのヨセフを規定していた「原理原則」とは異なるものに信頼して歩きだすのです。
古いヨセフは死に、新しい人が生まれました。彼はスキャンダル・躓きを身に帯びて生きていく覚悟を決めたのです。
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寡黙なヨセフの存在があったからこそ、マリアはマリアになっていきました。ヨセフは直面する苦悩も含めて、これが自分に備えられた道だと信じ、いさぎよく引き受けた人だったのです。
ヨセフの上に、聖霊という名の風が吹き抜けました。end
2023年12月10日 牧師 森 言一郎
『 マリアの 賛歌 それは 祈り です 』
【 聖 書 】
そこで、マリアは言った。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。
(ルカによる福音書 1章46節~48節)
「お言葉通りこの身になりますように」と告白したマリアは、寒村ナザレから100㎞離れていた「ユダの町」にエリサベトを訪ねます。100㎞は決して近くはないのです。
聖書には、わざわざ、「マリアは歩いてユダに向かった」とは書かれていません。でも、公共交通機関もないその当時、歩いて行くしかないのです。その「道」がマリアには必要でした。
私はそこに祈りがあったと考えます。
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エリサベトはマリアを家に迎えたとき、「声高らかに言った」とあります。「声高らか」は〈歌うエリサベト〉を想起させてくれます。
実にこの歌声に導かれて「マリアの賛歌」が始まったのです。「主を崇(あが)める」という言葉から転じて、「マグニフィカート」と広く知られるようになりました。
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マリアはどんな風に、「名も知れぬ娘を主はあえて選び、御子の母として用いられる」(讃美歌21-178)と喜びを歌ったのでしょう。
注意深く聖書を読み直しますと、二つの言葉が浮かび上がってきます。マリアは「私の魂」・「私の霊」は「神を喜び讃える」とあるのです。
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「魂」と「霊」による歌は大声による賛美を意味しません。「マニフィカート」はサムエル記上1章~2章にある、やがてサムエルの母となるハンナの、「主のみ前に心からの願いを注ぎ出す」に原点があります。
「賛美」とは神のみ前に注ぎ出す「祈り」でもあるのです。
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この自覚を持つとき、私たちの日々が変わり始めます。
ぜひ、お家(うち)でも賛美歌を歌って下さい。end
2023年12月3日 牧師 森 言一郎
『 ナザレのマリアへの福音によって 』
【 聖 書 】
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。(ルカによる福音書 1章26節~27節)
私はポーランド出身のヤン・ピエンコフスキーが影絵で画いた絵本『クリスマス』に登場するマリアが好きです。鶏が歩き回る庭で、エプロンをし、洗濯物を干しているマリアはごく普通の娘です。その姿は生き生きしています。受胎告知の舞台はガリラヤの寒村・ナザレでした。旧約にその名が一度も出て来ない。それが「ナザレ」なのです。
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神さまは世に少しも名も知れぬ娘を選ばれた。
そこには、神さまの重大な決心が垣間見えます。大胆に申し上げるならば、神さまの「悔い改め=方向転換」と言えるかも知れません。
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「ナザレのマリア」は、ルカ福音書の冒頭に登場するエルサレム神殿に仕える祭司ザカリアとエリサベトという老夫婦と対照的です。
彼らは、「律法に忠実な非のうちどころがない義人」として紹介されますが、マリアにはそのような情報は一切ありません。
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ザカリアとエリサベトには「洗礼者ヨハネ」と呼ばれるようになる息子が与えられます。イエスの先駈け、最後の預言者として荒れ野の声となります。
ヨハネだけでなく、彼らも、旧約と新約の橋渡し役を務めるのです。そして、二人の存在は「主のはしためマリア」を支えて行くのに不可欠でした。
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マリアに臨んだのは、「襲いかかるように突然降って来た聖霊の力」でした。マリアは聖霊に包まれ、生涯変えられ続けて行った人なのです。
クリスマスは、生まれ変わる人を求めます。end
2023年11月26日 牧師 森 言一郎
『 苦しみよどんと来い 』
【 聖 書 】
良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。(ヤコブの手紙 1章17節)
ヤコブ書はマタイ福音書に似た所があります。原文の躍動感を生かした塚本虎二先生の名訳では、12節は「“幸福(さいわい)なるかな”、試練に“耐える”人」とあります。
これは山上の説教が語られるマタイ福音書5章の「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」(文語訳)と同じ語調です。
試練と誘惑と戦う者に対しての励ましが必要だった当時のキリスト者の事情があったのです。
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この箇所を読むときに思い出したいみ言葉があります。
ヘブライ書2章の終わりの、「(キリストは)御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」とあることを心に留めましょう。
「キリスト教の神の特質は神との一体性だ」と(英国の聖書学者)バークレー先生は言われます。これは「神われらと共に」を意味すると理解できるのです。
詩篇119編71節を口語訳で読んでみます。「苦しみにあったことは、私に良い事です」とあります。主が私たちといつも共にあることを信じて生きる者は、「苦しみよどんと来い」となれるのです。
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ヤコブは「欲」についても触れます。欲は人間に必要なものです。「食欲」も然り。より良い人間関係を求める「向上心としての欲」も大切です。
しかし「欲」が「自己目的の欲望」と成り果てる時、人は罪に陥ります。
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神は私たちに必要な「よい贈り物」「完全な賜物」をご自分の元から手放される決心をされます。それがキリストの来臨として明らかになるのがクリスマスです。
今年もイエスさまの来臨に備える時が巡って来ます。end
2023年11月12日 牧師 森 言一郎
『 こんな風に生きて行こうよ 』
【 聖 書 】
四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。(マルコ福音書 2章3節~4節)
戸口の前に大勢の人が壁のように立ちはだかり、これではイエスさまに会うことが出来ないと考え、屋根を引っぱがしてしまうという、非常識な行動をとった人たちがいました。
イエスさまは彼らの「何をご覧になった」のでしょう。
聖書はこう告げます。「イエスはその人たちの信仰を見た」と。「その人たち」とは中風の人を運んで来た4人も併せ、総勢5人ということになります。
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しかも、イエスさまの話を聞こうとしてやって来ていた、律法の専門家たちが顔色を変えていきり立つことも承知の上で、こう言われたのです。「子よ、あなたの罪は赦される」と。
今度は、イエスさまの方が非常識な言葉を口にされました。なぜなら、律法学者たちが言うように、神にしか出来ないことをイエスさまが言葉にされたからです。遠慮気味にコソッと言われたのではありません。
「ことは成就している」という宣言でした。
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イエスさまに対する「信仰」をここでは「信頼」と読むことが出来ます。
この信頼が、個人的な修行や努力だけで実践できるのか、というと違います。私はここに「教会」というものの姿が浮かび上がって来るのを感じて嬉しくなるのです。個人プレーではない、みんなで共にという生き方です。
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イエスさまの救いの宣言は口だけのものではありません。
御自身が十字架で傷つき、命を捧げられることが既にここで予告されているのです。end
2023年11月5日 牧師 森 言一郎
『 父は、二人を共に愛している 』
【 聖 書 】兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 (ルカ福音書 15章28節)
二人の兄弟の譬え話は私たちに対して何を問うのでしょうか。
放蕩の限りを尽くし、あまりにも身勝手な形で帰って来た弟息子だけの物語がここにあるのではありません。間違いなく兄も居ます。
私たちは、兄さん息子と父親の関わり合いの物語からの呼びかけにも聴くように促されるのです。
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ここに登場する父とはイエスさまのことであり、父なる神のことです。その父は誰を愛しているのでしょう。
一見すると、ルカ福音書の15章の冒頭に姿を見せる徴税人や罪人たちが弟息子であり善であること。
イエスを追い詰めようとしているファリサイ派や律法学者たちは兄さん息子で悪であると言われている、と勘違いしそうです。
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父親は、弟息子だけを外に出て迎えたのではないのです。
兄さん息子が、弟を弟として認めることを放棄し、腹を立て家に入ろうともしないとき、父は間違いなく外に出て来てなだめています。
兄も愛されているのです。宝なのです。日頃から真面目に、誠実に、教えを守る兄のことも大切だと認めているのです。兄はそのことに気付きません。
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目の前に張り付いた四角四面の物差しが兄さん息子の人生の豊かさの邪魔をしています。
兄は、自分のように父の教えを決して踏み外すことなく、律法に忠実に生きている者だけが到達できる世界があると思い込んでいました。
でも、人は目から鱗が落ちる経験の中で人生が変えられて行くのです。聖書はそれを悔い改めと呼びます。
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私たちは今、兄弟達の物語の続編を生きているのです。end
2023年10月29日 牧師 森 言一郎
『 試練の時 主にすがろう 』
【 聖 書 】
私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。
(ヤコブの手紙 1章2節)『新改訳 2017』より
「ヤコブ書」は挨拶の言葉を終えると、いきなりと言って良い程に、我々が人生のどこかで遭遇する「試練の時」の生き方について簡潔な言葉で問うのです。
それは、「一体、どうしたらそんなことが出来るの」とつぶやきたくなるような言葉に見えます。「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」と促すからです。
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さらにヤコブは、「試練から忍耐が生じる」と続けるのですが、その辺りの言葉を直訳的にお伝えするならば、「忍耐を十二分に働かせよ」が真意なのです。
そしてその先において、「あなた方は完全な者となれる」とまで言い切ります。
「馬鹿なことを」と反発したくなります。でも、事実そう書かれている。ヤコブは試練の中に身を置くとき、心が定まらないで浮き足立つ私たちを見抜き、二心(ふたごころ)をやめて、「知恵を求めよ」と諭すのです。
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聖書の原語で「知恵」は「ソフィア」です。「知識」とは別のものです。
「知恵」を国語辞典で調べると、「執着や愛憎(あいぞう)など、煩悩(ぼんのう)を消滅させ、真理を悟る精神の働き」とあります。
嬉しいことに知恵の類語として「ロゴス」という言葉を発見しました。「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ福音書1章)の「言」がロゴスなのです。
言い換えれば、「イエス・キリスト」のこと。我々の福音の道標(みちしるべ)です。
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主イエス・キリストは、今日も私たちと共に「試みにあわせず悪より救い出(いだ)したまえ」と祈って下さいます。
主にすがり、主と一体となって祈り続けましょう。やがて、私たちは完全になります。end
2023年10月22日 牧師 森 言一郎
『 神さまは石ころを必要とする 』
【 聖 書 】
主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。(申命記 7章7節)
神さまの「選びと招き」は人の思いを超えて不思議です。
旧約の申命記7章で「出エジプトの民」に語られたのは「あなたがたの貧しさ、小ささが私を激しく動かした」というものでした。
その選びに見いだされる主の愛は、新約にも貫かれます。
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マルコ福音書12章でイエスが語った「ぶどう園と農夫の譬え話」では、ご自身が十字架の上で殺され、石ころのように捨てられることを暗示されます。
詩編118篇の預言的なみ言葉、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主のみ業 私たちの目には驚くべきこと」を引用されたのです。そこには救いの道が隠されていました。
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使徒言行録4章にも関連する見逃せない場面があります。ペトロは聖霊降臨の出来事の後(のち)に議会に連行されました。彼は元々は漁師で、無学で普通の人なのです。にも関わらず、ペトロは復活の主を大胆に説教し人々を驚かせます。
そしてそこでも、「我らの主イエスはあなたがたが捨てた石ころだが隅の親石となった」と語るのです。キリストの教会は、「石ころイエスが私たちを支えている」という福音を見出し、自覚を持って語り続けたのです。
省みれば、主が飼い葉桶にお生まれになったことも、貧しく・小さな人々に、救いが宿ることの象徴だったことに気付かされます。
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教会は石ころが集められ、石ころイエスに支えられて本物になっていくのです。
私たちも石ころに過ぎない存在ですが、その事を誇りましょう。end
2023年10月15日牧師 森 言一郎
『 人の子の再臨によって 』
【 聖 書 】
稲妻がひらめいて、大空の端(はし)から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥(はいせき)されることになっている。
(ルカによる福音書 17章24節~25節)
ここでイエスさまは、「人の子」という言葉を繰り返されます。ご自身が「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(ルカ9:58)と語っておられたことを思い出します。
十字架の死と復活、そして昇天をされたイエスが「人の子」として、再び世にお出でになる時のことを弟子たちに語られるのです。教会はそれを「再臨」と呼び、大切に告白して来ました。
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再臨のイエスによって起こるのは「最後の審判」、つまり「終末」です。イエスさまはここで、創世記のノアの洪水の物語と、アブラハムの甥っ子ロトが暮らしたソドムに襲いかかる、火と硫黄(いおう)による滅びの出来事に触れられます。
二つの物語には、共通している重大な警告があるのです。隣人を忘れ、自分の暮らしばかりに明け暮れている者は、失ってしまうものがある、という警告です。
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聖書の終わり、ヨハネ黙示録22章13節に「私は初めであり、終わりである」という主のお言葉があります。「終わり」を意味する言葉は、原文では「テロス」です。
この「テロス」には「目的・目標」という意味もあるのです。黙示録を生み出した教会は、「私は来る」と約束されたイエスの再臨を「アーメン、来て下さい」と祈りながら待ち望みました。
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「人の子」はただ単に終わりを告げる方ではなく、信ずる者に救いをもたらし、復活と永遠を与えて下さいます。これこそ、今、苦悩しながら生きている私たちへの福音なのです。end
2023年10月8日 牧師 森 言一郎
『 パウロを生かした力の秘密 』
【 聖 書 】
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。(使徒言行録 28章30節~31節)
パウロは今ローマに連行されて来ています。
元々のパウロは教会の迫害者でした。ユダヤ教の「分派」に過ぎない「この道」をゆるせない人だったのです。そんなパウロが、キリストに出会い回心します。聖霊に押し出され、キリストの福音が「地の果てに向かう」(使徒1章)ための神の器となったのです。
とは言え、パウロの歩みは少しも順調ではなく、危険と挫折がいつも伴っていました。
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使徒言行録の最後に、見過ごせない事実が見つかりました。パウロはローマに初めて来たばかりなのに、彼の家には来訪者が絶えなかったのです。一体誰なのでしょう。初めて会う人達なのか。いいえ違います。
その答えは、ローマ書16章1節以下にあります。既にローマで信仰生活をしている人々に宛てた手紙の最終章です。
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そこにはパウロがどこかで出会い、共に歩んできた「奉仕者」「援助者」「協力者」「母」と紹介される人々の名が綿々とあげられています。
パウロが伝道の旅路の中で出会った人びと共に、いつも一所懸命、誠実に「神の国」を分かち合い続けてきた証しです。その中でこそ、最大の宝であり喜びの源である仲間が、家族が、弟子達が与えられてきたのです。
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今、苦楽を共にしている信仰生活の中に「神の国」は見いだされるということです。たとえ平凡で、つたなく、破れに満ちていても、私たちは我々の使徒言行録29章にその足跡を残しながら生きているのです。
その旅路はこれからも続きます。end
2023年10月1日牧師 森 言一郎
『 もっとも小さき者へ 』
【 聖 書 】
他方、ラザロという名前の乞食がいて、膿んだ傷だらけで、金持ちの家の門のところに置かれていた。
(田川建三訳・ルカ福音書 16章20節)
ラザロ。彼は毎日、誰かに放り出されて金持ちの家の前に置かれ、辛じて生きていた、「膿んだ傷だらけの乞食」でした。また、「金持ちの食卓からこぼれ落ちるもので腹を満たそうとしていた人」でもありました。
ラザロは、神にも隣人にも、「助けて」と叫ぶことすら失っている人のように見えます。そんなラザロが死を迎え、天に上げられた時から、思いも寄らぬことが起こり始めるのです。
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世にあって最も小さくされたラザロは、死後の世界に身を置いた時、彼は信仰の父アブラハムと共に神の国の祝宴に身を置きます。
しかし、ほぼ同じ頃に死んだ贅沢三昧の金持ちは、底なしの淵を挟んで祝宴を見るだけで、燃えさかる炎の中、悶(もだ)え苦しみます。
彼は慌てて父アブラハムに、「ラザロをよこし、私を助けてください」と願うのです。
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この譬え話を読むときに思い起こしたいのは、ルカ福音書6章の「平地の説教」です。
そこには、「幸いなるかな貧しき者よ、神の国は汝(なんじ)らのもの」というイエスさまの宣言があります。
主イエスのお言葉は空手形ではなく、実存のかかった、成就する言葉とし明らかにされているのです。
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この譬え話のテーマは、死後をいかに生きるかではありません。問題は、今、主のお言葉に聴き従おうとしている者が、これをどう受けとめ、悔い改めを生きるかなのです。
ラザロは金持ちの門前で何とか生きていた時、低きにくだり、最も貧しいお方として友となられたイエスと共にあり、御国へ上げられます。
神の御心は先行するのです。end
2023年9月24日 牧師 森 言一郎
『 シェマーを読み キリストに従う 』
【 聖 書 】
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 (申命記 6章4節~5節)
モーセは約束の地カナンを目前にしながら、ヨルダンを渡ることをゆるされませんでした。この時、モーセは神さまから託された言葉を語り始めたのです。それが一つにまとめられたのが、『申命記』です。
中でも、最重要な教えとして、今日(こんにち)でもユダヤ人が折に触れて祈り続けているのが、「聞け(*シェマー)、イスラエル」から始まるみ言葉です。
この、「聞け(*シェマー)、イスラエル」を、イエスさまご自身が本当に大切にされたことが福音書に記されているのです。
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イエスさまはそのご生涯の最終盤で律法学者から、「先生、律法の中でどの掟が一番重要ですか」と尋ねられます。
その際、第一に引用されたのが申命記6章4節で、まず「唯一の主を愛せよ」と仰いました。そして、第二のこととして、レビ記19章18節から「隣人を自分のように愛せよ」と続けられたのです。
「唯一の主を愛す」と「隣人を愛す」。この二つの愛は別物ではありません。私たちは、イエスさまが指し示される二つの愛の方向を共に求め、共に悩みながら生きている者です。
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パウロは、イエスさまご自身が、神の教えに最後まで聴き従ったお方であることを、フィリピ書2章の「キリスト賛歌」で歌いました。
「キリストは…死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と。「従順」とは「聴き従うこと」です。
「イスラエルよ、聞け」でも、「聞く」だけでなく「従う」ことが一緒に求められています。
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いつまで経っても、未熟で不完全な私たちですが、お招きに応え、主の言葉に終わりまで聴き従いましょう。end
2023年9月17日 牧師 森 言一郎
『 足りないくらいで良いのです 』
【 聖 書 】
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(コリントの信徒への手紙 二 12章9節)
星野富弘さんは24歳(1970年)の時、中学校の体育教諭としてクラブ活動指導中、得意だった鉄棒から落下。首から下の運動機能を失います。
事故から二年後、星野さんは病室で口に筆をくわえ、文や絵を描(か)き始めたのです。さらに二年後、病床洗礼を受けてクリスチャンとなります。
お母様、奥様、多くの方々に支えられる中、星野富弘さんは故郷・群馬県東村(あずまむら)のお住まいの近くの畑の道を電動車椅子で歩きながら、見つけた草花を描き続けています。
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私は20代の半ば、B型肝炎との先の見えない闘病、入退院を繰り返し始めた頃、星野さんの詩画集に出会って救われました。
先日、『あなたの手のひら』(1999年・偕成社)という詩画集の後書きを読んでいて深く慰められ、教会生活の希望を与えられました。それは、パウロが第二コリント書12章で語る、「弱さ賛歌」の言葉に通ずるものでした。
今号は、その言葉を紹介して終わります。私たちの信仰生活に重ねて読んでみましょう。
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手や足が使えなくなって、できなくなったことはたくさんありますが、できるようになったこともたくさんあります。詩を書くようになったのもその一つです。
絵と文字という別のものを、一枚の紙の中に描いていくうちに少しずつ分かってきたのですが、絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けている者同士が一枚の画用紙の中におさまった時、調和のとれた作品になるのです。
これは詩画だけでなく、私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、助け合うのは自然なことです。end
2023年9月10日 牧師 森 言一郎
『 宴会を大切にする生き方 』
【 聖 書 】
主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない。』
(ルカによる福音書 14章23節~24節)
キリスト教会は「宴会」を大切にしています。ですから、私たちは堂々と、「うちの教会の宴会に、あなたも一度来てみない?」と誘ってもよいのです。
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しかし、私たちはイエスさまが譬え話で語られる「宴会」の本質を知っておく必要があります。イエスさまは私たちを「大宴会」にお招きくださるのですが、それは「酒宴」のことではありません。「神の国」のことであり「礼拝」なのです。
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イエスさまは譬え話を用いながら、せっかく「宴会」=「神の国」への招きを受けたにもかかわらず、もっともらしい理由を口にして断る三人を描きます。
彼らは破れのある言い訳を恥ずかしげも無く口にするのですが、その破れに気付きません。「聖書は鏡」であることを思い起こすなら、ここに登場する人々は私たちの姿そのものなのです。
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その後イエスさまは、神の国の本質を明らかにされる招きを語り続けられました。
それが、『急いで町の広場や路地へ行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい。』というお言葉です。
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招きを受けているのは、世にあって小さくされ、周縁に置かれ、一人前に扱われない人々でした。
そのような人たちを「無理にでも連れてきて、この家をいっぱいにせよ」とのお言葉は「神の国」の本質を告げるものです。
実に、この非常識にも聞こえる招きがあるからこそ、私たちは教会に集い、神の国を証しする礼拝を日曜日毎(ごと)にささげ続けるのです。end
2023年9月3日 牧師 森 言一郎
『 パウロを支えた喜びの力 』
【 聖 書 】
ローマからは、兄弟たちが私たちのことを伝え聞いて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。(聖書協会共同訳*一部漢字変換、使徒言行録 28章15節)
パウロの伝道の旅路は、紆余曲折、波瀾万丈、一難去って又一難でした。直前の出来事で申し上げるならばマルタ島への難破を経て、願い求めていたローマに辿り着くのです。
パウロはローマの信徒への手紙を記した人ですが、これまでイタリアも、ローマにも来たことはありませんでした。
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一体ここではどのようなことが待ち構えているのか。多少なりともの不安や恐れ、緊張はあったに違いありません。
けれども、それは杞憂に終わります。いいえ、パウロは自身の旅路を冷静に振り返ってみるならば、いつも、不思議な形で助け手が与えられ、主イエスにあって同労者になってくれる人、弟子となってくれる人が与えられてきました。身を寄せる場所、食べることを助けてくれる人、祈ってくれる人がいつも居たのです。
使徒言行録18章に記録される一年半以上に及んだという「コリント」での伝道の日々がそうでした。それはパウロの宝となり自信となったのです。
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ローマを目前にしての港町プテオリでも七日間にわたって「兄弟たち」と呼ぶ同信の仲間たちがあたたかくパウロら一行を迎えてくれました。そしてここでは、ローマから出向いてきてくれた人々が居たのです。
パウロは純情で素朴な人だったと思います。使徒言行録を記したルカは、「パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた」と記します。
私たちもこのような相互の交わりの中に生きたい。私はいつもそう祈っています。end
2023年8月27日 牧師 森 言一郎
『 山に登って 見渡せなくとも 』
【 聖 書 】
このアバリム山(さん)に登り、私がイスラエルの人々に与えた土地を見渡しなさい。(民数記 27章12節)
「荒れ野の40年近い旅路を経て、乳と蜜の流れる約束の地・カナンを目前にした荒れ野の40年近い旅路を経て、乳と蜜の流れる約束の地・カナンを目前にしたモーセに対して主が告げられたのが上のみ言葉です。
言い換えるならば、「モーセよ、あなたの務めはここまでだ」ということです。
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この先、申命記31章でモーセはイスラエルの民に、「私は今日(きょう)、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主は私に対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。」と語ります。
さらに、申命記の最終章34章でも、「モーセはピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。」とあるのです。
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注目したいのは、「山に登って約束の地を見渡せ」というお言葉です。モーセは山頂で約束の地を見渡し、神が指示された通り、僕(しもべ)ヨシュアにバトンを渡します。
モーセはヨルダンを渡ることは出来ないのです。でも、彼は納得し満ち足りていました。これは、神の国の完成を目指す私たちの信仰の在り方、生き方を静かに問うてくる場面です。
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「時」について語るコヘレトの言葉3章を読み直してみました。
ここでは11節を記します。
「神は永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」とあります。
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ピスガの山頂で、モーセには旅の終わりが告げられていますが、同時に、ここには神の民イスラエルの始まりがあります。
最後にひと言。イエスは山に登ることが出来ない者のために世に降(くだ)ってこられます。
「愛の極み=救い」は、そこで明らかにされるのです。end
2023年8月6日 牧師 森 言一郎
『 たがいに結ばれる教会 』
【 聖 書 】
イェルサレム、それは(仲間が)互いに結ばれる町として建てられている。(詩編122篇3節・勝村弘也訳)
「都上りの歌」・「巡礼の歌」に分類される詩編122篇。ユダヤの人々は、地域の仲間たちと、親戚や家族同士が連なってエルサレムを目指すのです。律法に従い、例えば、過越祭にはエルサレムに行く。神の教えに忠実に生きようとする人たちにとって喜びでした。
上にご紹介した詩編122篇3節は勝村弘也という旧約学の先生の翻訳です。ぜひ、お手元の新共同訳と比べてみてほしいと思います。
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1節には「主の家に行こう、と人々が言ったとき私はうれしかった」とあるのですが、「主の家」とは神殿のあるエルサレムのことです。
遠方からの巡礼であればあるほど、格別な喜びがあったのだろうと思います。だから2節には「わたしたちの足は立っている」とわざわざ表現するのです。
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ところで、私たちがクリスチャンとしてこの詩編を味わうときに必要なのは、神殿に詣でることを想像するのではなく、週毎の礼拝を思い浮かべることです。
誰かに誘われ一緒に礼拝に出席すること。それは、平凡ですが、私たち信仰者にとってもっとも貴いことです。これ以上の幸せはないと言い切れます。私たちの人生はある意味巡礼の旅の連続なのです。
週毎の礼拝は、世の暮らしを中断しているようでありながら人生の大きな意味での旅の途上にある掛け替えのない時です。
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主の家において明らかにされる恵みは何か。
それぞれに違う旅路を歩んできた多様で雑多とも言える存在である私たちが、礼拝において、み言葉という一つの糧を分かち合う中で「キリストの体」である神の家族として結び合わされることです。end
2023年7月30日 牧師 森 言一郎
『 イエスの覚悟 弟子の覚悟 』
【 聖 書 】
その日の一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。(ルカによる福音書 9章57節)
ルカ福音書が描くイエスさまの生涯の分岐点は9章51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」というみ言葉にあります。
イエスさまが世にお出でになったのはエルサレムでの十字架の出来事にあることを読者に注意喚起するのです。
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その表情は強い決意を明らかにされているもので、「顔を固めた」というのが聖書原文の直訳です。
弟子たちはその表情の変化に気付いていたのでしょうか。
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決意を固められたイエスさまは弟子たちと共にサマリア人の村にお入りになります。「善きサマリア人の譬え話」や「サマリアの女」の記事等から、サマリアとイエスの関係は良好という勝手な印象があります。
しかし、ことは単純ではありません。彼らはユダヤ人の都エルサレムに向かうイエスに、これっぽっちも好感も抱いていません。弟子たちは、「天から火を降らせてサマリア人を焼き滅ぼしましょうか」と勇ましいことを言いました。
しかし、主は弟子たちを厳しく戒められます。
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一行は先に進みました。「あなたのお出でになる所なら、どこへでも従って参ります」という人を筆頭に、三人の人がイエスさまの前に進み出るのです。
三人は、「父の葬儀で葬りがあります」等と上手に言いわけをして、厳しさが増し始めているイエスさまに従うことから逃れようとしたのです。
12弟子はその様子を見ながら、自分たちの姿が鏡に映し出されていると感じるような経験をしたはずです。言い訳の多い私たちこそ、身を引き締め、み足跡に従うことが求められます。end
2023年7月23日 牧師 森 言一郎
『向こう岸へ渡る教会』
【 聖 書 】
その日の夕方、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 (マルコ福音書 4章35節)
皆さんは「からし種(だね)」を実際にご覧になったことがあるでしょうか。からし種は、本当に驚くほど小さなものです。
イエスさまが弟子たちに、舟に乗って「向こう岸へ渡ろう」と言われる直前に、「からし種」が「神の国」の福音の鍵だと譬え話の中で教えられたのは、偶然ではありません。
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12人の弟子たちは、世にあって特段注目を集めるような存在ではありませんでした。「からし種」のような小さな者に過ぎないのです。でもイエスさまは彼らを必要とし、育てようとされます。
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「向こう岸」は「異邦人」の地であると同時に、「未知の世界」の象徴です。13人が乗り込んだ「舟」は「教会」のことを暗示していることを心に留めましょう。
彼らは命の危機を感じる嵐の中で、「溺(おぼ)れても何とも思わないのですか」と叫ぶのです。
イエスさまは熟睡しておられました。おもむろに起き上がられた後(のち)、湖を叱(しか)りつけ、凪=平安を与えられます。インマヌエルのイエスが救い主であり、創造の主であることを示されました。
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向こう岸で待ち受けていたのは墓場に追いやられ、鎖に繋がれた「レギオン」と名乗る人でした。
レギオンは、「神の国」とは正反対の、ローマの「悪の力による支配」を意味します。その力に縛り付けられ、社会の隅っこに追いやられている存在を意味しているのです。
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イエスさまは、この出会いを通じて、からし種である弟子たちに対して、神の国の不思議な働きと広がりを教えられるのです。共にイエスが居られる教会という名の舟は、嵐の中でも、主と共に「向こう岸」に渡ります。end
2023年7月16日 牧師 森 言一郎
『 メリバにて 魂の渇き 』
【 聖 書 】
なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせ、こんなひどい所に導き入れたのか。ここには・・・飲み水さえもない。(民数記 20章5節)
エジプトからの解放を約束された神の民イスラエル。荒れ野の旅路は民数記20章で既に40年目に入ります。またもや騒動が起こるのです。
のちに、「メリバの水」と呼ばれるようになる出来事です。水を確保できない民がモーセに詰め寄ります。
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命の水の枯渇(こかつ)に見る彼らの渇きと恐れは、単なる喉の渇きを意味しているのではありません。彼らは魂の渇きを抱えていました。
私どもも無自覚のうちに命の渇きを抱えて生きていることがあります。出エジプト記17章によく似た水を求める民の不従順が記録されています。あれは、「メリバの水」と同じ出来事ではなく、人が生きていく上で同様の過ちを犯すことを暗示しているのです。
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モーセは神さまに指示を仰ぎます。
すると、「杖を取り、岩に向かって、水を出せと命じなさい」というお言葉を受けたのです。
ところがモーセは、神さまからの約束のお言葉だけに、信頼することができませんでした。
彼は岩に向かって、「水を出せ」と命ずるだけではなく、「岩を二度打った」のです。神さまはモーセの信頼の薄さを見抜かれました。これゆえモーセは、「あなたたちは私の聖なることを示さなかった」と厳しい叱責を受けます。これは、私たちへの注意喚起でもあります。
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私たちも、私たちの荒れ野の40年において、神の言葉を疑ってしまいます。徒党を組む民も、岩を二度打つモーセも、我々とさして変わりません。
だからこそ主イエスは、「信じる者になりなさい」と、今日も、明日も、お招きくださるのです。end
2023年7月9日 牧師 森 言一郎
『 暴風・漂流・難破 のち マルタ島 』
【 聖 書 】
私たちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。(使徒言行録 28章1節)
ユダヤからローマへと船で「護送」されるパウロはついに「上陸」を果たします。正確に言うならば「漂着」したに過ぎません。そこがどこであるのか、パウロにはわかりませんでした。
いいえ、船乗りも兵士も囚人も、誰にもわからなかったのです。立った場所は「マルタ島」でした。
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彼らはずっと、暴風と漂流の中におりました。「太陽も星も見えず、助かる望みは全く消えた」と聖書にあります。
すべてを海に「投げ捨て」なければならず、「積み荷」も「海錨(かいびょう)」も「船具(ふなぐ)」も諦めたのです。最後は難破した「船」も捨てました。
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暴風・漂流・難破・漂着と続いた使徒言行録27章の海路(かいろ)は、私たちの人生そのものです。そんな中でのパウロの言葉は不思議な程に落ち着きがあり、確信に満ちたものでした。
彼には生きていく上での目標がありました。だから強かった。パウロは天使が伝えた、「あなたがたは必ずどこかの島に打ち上げられる」との言葉を信じました。神さまに一切を委ねて生きる。私たちが倣うべき姿があります。救いの道はここから拓けるのです。
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マルタの人は「バルバロイ」と呼ばれる異邦人でしたが実に親切でした。パウロはイエスさまが遣わされた72人の弟子たちに与えられていた以上の力を発揮し、蝮(まむし)に噛まれても死なず、3ヶ月の間、人々を癒し続けます。福音も語った。
彼は単なる奇跡能力者ではありません。聖書はパウロの背後に隠された神のみ心を伝えるのです。
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我々も人生途上の暴風や漂流を経て教会に漂着しました。上陸した私たちに託されるご計画を神さまはお持ちです。
救われた私たちの旅は続きます。end
2023年7月2日 牧師 森 言一郎
『 帰って来たサマリア人(じん) 』
【 聖 書 】
その中の一人は、自分が癒やされたのを知って、大声で神を崇(あが)めながら戻って来た。(ルカによる福音書 17章15節)
イエスさまはエルサレムへ向かわれる途中、特別な地の「間(あいだ)」を選んで進まれます。
サマリアとガリラヤの「間」・「境界」には、「深い淵」があります。歴史的な事情により、サマリア人(じん)とユダヤ人は互いに交わりを避けていました。彼らは犬猿の仲なのです。
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しかしイエスさまは、そこへ追いやられた人々に対して、憐れみを注がれるのです。イエスさまが「間(あいだ)」で出会われたのは「重い皮膚病」で苦しむ人々でした。
普通なら、彼らは肩を寄せ合って生きる様な人たちではありません。しかし、ここでは十人の人たちが、「私たちを憐れんでください」と声を揃えて救いを求めたのです。
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この時イエスさまは不思議な言葉を口にされます。「祭司の所へ行って体を見せなさい」というのです。
レビ記13章には、清くなった人は祭司の所へ行く、との定めがありますが、イエスさまはここでまだ癒される前に、「祭司の所へ行け」と言われた。やがて、お言葉に従った十人は、皆、途中で清くされたことに気付きます。
ところが、くるりと向きを変え、大きな声で神を賛美しながら戻って来たのはサマリア人一人だけでした。
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「間(あいだ)」を通って進まれたイエスこそが、「み神の座を捨て、人となられた主、まことの王なる、まことの祭司」(讃美歌21-291)なのです。
サマリア人は心からの感謝を捧げながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏します。これは礼拝する人の姿です。
ルカは神を崇(あが)める小さき者を意図して描きます。
イエスの母マリアは「マリアの賛歌」において主を崇めます。ローマ皇帝による住民登録の対象にもならない羊飼いたちは、飼い葉桶のイエスを大きな声で賛美しながら帰って行きました。end
2023年6月25日 牧師 森 言一郎
『 ヤイロに信仰を伝えた女(ひと) 』
【 聖 書 】
女は隠しきれないと知って震えながら進み出てひれ伏し、イエスに触れた理由とたちまち癒やされた次第とを民全員の前で話した。(ルカによる福音書 8章47節)
イエスさまの元に進み出てひれ伏し、「12歳の娘」の救いを懇願した「ヤイロ」。彼は地域でも名の知れた会堂長でした。律法に通じていた人であり世話役です。
そんな人が、イエスにひれ伏してまでして救いを求めるのはスキャンダルでした。しかし、彼は勇気を出して一歩を踏み出したのです。
**************
ところが、イエスさまはヤイロを後回しにされます。優先されたのは、何としても救われたいと願い、群衆に紛れ込んでまでしてイエスの後ろから近付き、主の衣の房に触れた「無名の女(ひと)」でした。
彼女は12年間出血が続いていました。ヤイロの娘が生まれてからここまでの12年とピタリと重なります。その間、無名のこの女(ひと)は律法の規定によって、家族は元(もと)より、地域から離れて生きなければなりませんでした。
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主の衣の房に触れてまでして救いを求める姿から、「生きて行きたい」という強い意志が伝わってきます。皆の前で全てをありのままに伝えたこの女性の祈る心を、イエスさまは受けとめられ、憐れみ、慈(いつく)しまれたのです。
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ヤイロは、長血(ながち)の女とイエスさまの一部始終を、すぐ側(そば)で聞いていました。ヤキモキしたことでしょう。時が止まっている、と感じたはずです。
案の定、「娘さんは亡くなりました」との報が届くのです。
けれども、ヤイロの家に向かわれたイエスさまは、「ただ、信じ続けなさい」と言われた。手をとられた12歳の娘に、霊なる命が戻ってきました。
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信じ切れていなかったヤイロ。彼は、娘が起き上がった時に驚愕(きょうがく)します。
ヤイロに信仰の道を教えたのは、この「長血の女」の存在だったのです。end
2023年6月18日 牧師 森 言一郎
『 荒れ野の四十年の始まり 』
【 聖 書 】
そこで、向きを変え、明日、葦の海の道を通って、荒れ野に向けて出発しなさい。(民数記 14章25節)
西暦250年頃に至るまでの初期キリスト教徒の教会生活の断片を紹介する『カタコンベの教会』(聖文舎・1968年)という本があります。洗礼を受けた人が初めて聖餐にあずかる時に準備されたものは、「ミルクと蜂蜜」だったというのです。
「パンとぶどう酒」ではないのが不思議ですが、理由は明確です。受洗者が、「乳と蜜の流れる約束の地」に入ったことを象徴する意味があるからです。
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エジプトでの奴隷状態からの解放のみ業を神さまが始められる決断を下された時の様子が、出エジプト記3章7節に記されています。民の苦しみをご覧になった主は、「乳と蜜の流れる土地へと導き上る旅」に責任をもって立ち上がられるのです。
イスラエルの民は不平不満ばかりを口にします。12部族を代表する者たちが斥候(せっこう)として約束の地カナンに潜入した時の様子が報告されます。
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「悪い情報」にふれた人々は怖じ気づき、「死んだ方がましだ」とまで言いだします。「巨人」が待ち構える約束の地に、「いなご」のような小さな民が進むことなどできるはずがない、と泣き叫ぶのです。
民に対して怒りを露わにされる神。必死になって執り成すモーセの声が聞こえます。神さまは厳しいお仕置きを決断されました。向きを変えさせて始まるのは、「荒れ野の四十年」でした。
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私たちは、「荒れ野」を旅する年月の中で、一人の信仰者として、信仰共同体として整えられて行くのです。
主なる神は「小さな者」を決して見捨てたりはなさいません。
イエスを信頼する者に、「乳と蜜の流れる神の国」を約束されています。end
2023年6月11日 牧師 森 言一郎
『 〈錨(いかり)〉のイエスに守られて 』
【 聖 書 】
そこで、錨(いかり)を切り離して海に捨て、同時に舵(かじ)の綱(つな)を緩め、吹く風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。(使徒言行録 27章40節)
囚人として海路ローマに向かうことになったパウロ。
船は激しい嵐に巻き込まれ、座礁の危機の連続でした。この時のパウロを支えていたのは、20年余りの宣教の旅の中で身につけた、「弱い時にこそ強い」(第2コリント書11~12章参照)という信仰です。
難破直前に現れたみ使いから、「恐れるな=大丈夫だ」の声を聴き、ローマでキリストを証しする使命も、再度、明確に示されていたのです。
*
生命(いのち)の危機にさらされ続ける船は「教会」を暗示しています。276名が乗り込んでいた船から、「積み荷」も「船具」も大切な「穀物」も、海に投げ捨てる事態に陥ったのです。
遂には、航海を守るための最後の砦(とりで)とも言える「錨(いかり)」すらも、全て切り捨てます。
助かる望みが消え失せようとしていた人々は、何を頼みとすればよいのでしょう。
*
NHKの「ラジオ深夜便」という放送は毎晩11時から午前5時まで放送されている長寿番組です。どこかで聞いたことのある声が、深夜の孤独や不安を覚えるリスナーに「安心」を届けてくれています。
放送ではアナウンサーのことが「アンカー」と呼ばれます。日本語にするとそれは「錨(いかり)」です。
*
私たちも人生という名の航海で嵐を経験し座礁します。一切を失ったと感じることがある。
しかし、「錨」であるキリスト・イエスは、私たちを決して見過ごしにはなさいません。命懸けで私たちの「錨」で在り続けようとし、「港」へと導かれるのです。
パウロのほか275名全員は、嵐・漂流・難破を経て、全員がマルタに立っていました。end
2023年6月4日 牧師 森 言一郎
『 ニコデモへ 愛を込めて 』
【 聖 書 】
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネによる福音書 3章3節)
「夜」の訪問者ニコデモ。彼はユダヤ人の中でも生真面目なファリサイ派の指導者です。
イエスさまに直接会ってどうしても教えて頂きたいことがあったのですが、その立場上、人目を避ける必要がありました。だから「夜」こっそりと訪ねます。
**************
ニコデモとイエスの問答で気になる言葉があります。ヨハネ福音書では、この場面だけでしか使われていない言葉だからです。
それが「神の国」です。
ニコデモはイエスさまから、「あなたは新たに生まれなければ、神の国を見ることも、入ることもできない」と言われ、途方に暮れました。
**************
聖書の中で、塵に過ぎない人間に最初に「息」が吹き入れられるのは創世記2章7節です。
そのことを確かめた上で、今日のみ言葉を読むと、一筋の道が見えてきます。ヨハネ福音書において「息・聖霊・風」はすべて同じ言葉=「プネウマ」を別々の日本語に訳し分けたものだからです。
**************
イエスさまが十字架の上で「成就した」と言われ、「息」を引き取られたとき、ニコデモはそこに居たのです。
主がこうべを垂(た)れ、救いのために「息」を吐き尽くされたとき、ニコデモはその「霊」を受けました。
「霊」によって新しくされた彼は、イエスさまの埋葬のために立ち上がるのです。
**************
世を恐れ、家中の鍵を掛けて身を隠していた弟子たちに、復活の主イエスは顕(あらわ)れます。そして、「聖霊を受けよ」と言われ「息」を吹き込まれたのです。
聖書は私たちの鏡、私たちの物語です。end
2023年5月28日 牧師 森 言一郎
『 故郷の言葉で語りなさい 』
【 聖 書 】
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。(使徒言行録 2章8節)
キリスト教会が世界各地に誕生する切っ掛けとなった出来事。それが聖霊降臨(せいれいこうりん)です。
「父の約束されたものを待ちなさい」というイエスさまのお言葉を信じて祈りを合わせていた人々の上に、「聖霊」は降(くだ)ったのです。
聖書は、「激しい風が吹いて来るような音がし、炎のような、舌のようなものが、使徒たちの上にとどまった」と告げます。
*
使徒たちが受けたもので一番大事なのは「舌」だったと思います。弟子たちは、「ぶどう酒」に酔っているかのように、「舌」を使い、よその国の言葉で、「神の偉大な業」を語り始めるのです。
*
当時、地中海世界の各地には、エルサレムから散って行ったユダヤ人が暮らしていました。
彼らは、ユダヤ人がユダヤの社会で使っているアラム語ではなく、各地で使われている言葉を、「自分の生まれた故郷の言葉」として身につけていきました。
地域に溶け込み、たくましく生き抜いたのです。
*
そんな彼らも、エルサレムに戻って来たときは、異邦人の地で使っていた「よその国の言葉=私たちの言葉」を使いません。都エルサレムで異邦人の言葉を口にすることなどあり得ないのです。
*
ところが、のちに「ペンテコステ」と呼ばれるようになる日、神さまは思いも寄らない出来事を起こされました。
ガリラヤ出身の無学な弟子たちが、炎のような聖霊によって、「神の偉大な業」を、世界各地の言葉で語り始めたのです。
様子に気付いたエルサレムに戻って来た人々は驚き怪しみました。でも、内心は嬉しかったのです。
私たちは「ペンテコステ」を昔話にしてはなりません。end
2023年5月21日 牧師 森 言一郎
『 恩返しの旅路を生きる 』
【 聖書 】
今では、私たちの魂は干上がり、私たちの目に入るのは、このマナのほかは何もない。(民数記11章6節 *聖書協会共同訳より)
エジプトでの奴隷状態から解放された民は、約束の地に向けての途上にあります。「シナイの荒れ野」に1年間留まるうちに思いがけず「律法」が授けられました。
荒れ野には大変な苦労もあったと思いますが、根底において彼らには希望があるはずでした。
ところが、彼らは激しい不満を口にします。以前も同様のことを口にしていましたが、今度は、「マナばかりで魂が干からびる」とまで言います。この時、神の怒りが激しかったと民数記11章は伝えるのです。
*
私は大相撲が大好きです。大相撲の世界でよく耳にするのが「恩返し」という言葉です。先日は、引退することを発表した元大関・栃ノ心(とちのしん)関について、「鍛えてもらったことを生かして、少しずつでも恩返していきたい」と朝乃山というお相撲さんが語っていました。
私たちの人生にも「恩返し」すべき人が間違いなくいるのです。ところが、私たちは「恩知らず」な振る舞いをしてしまうのです。
*
「恩」とはどういう意味があるのか国語辞典を引きました。「人にしてもらった感謝すべき事柄」とあります。
類語として「めぐみ」「情け深い」「いつくしみ」という言葉が出てきます。これは「神の愛」そのものです!
*
大相撲風に言うならば、私たちは神さまから頂いた救いへの「恩返しの旅」の途上にあることに気付くのです。
不平不満が余りに過ぎるとき、神さまは私たちに「雷」を落とされます。
イエスさまはその怒りを「十字架」の上で私たちの身代わりに受けられました。end
2023年5月14日 牧師 森 言一郎
『 百人隊長の信仰 』
【 聖書 】
主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません。(ルカによる福音書7章6節 *新改訳2017より)
舞台はガリラヤの港町「カファルナウム」。主人公は「百人隊長」を務める異邦人です。彼は真面目な男だったのだと思います。
聖書の行間を読んでの私の想像ですが、百人隊長は、職務に忠実であるためには、鬼のような決心をしなければなりませんでした。部隊の者たちに命を懸けさせてでも「行け」と命じなければならなかったでしょう。
百人隊長には神さまが必要でした。
もちろん救いもです。
**************
百人隊長が頼りにしていた「下男(げなん)」(塚本訳)が居りました。下男は兵士ではなく、あくまでも身辺の世話をしてくれる「僕(しもべ)」です。
この下男。百人隊長にとって本当に大切な存在でした。百人隊長はその立場ゆえに、兵士たちの前で弱音を吐くことができません。
でも、この僕の前では、ぼやきも不安も、悔いも、安心して話せたのではないかと思います。そんな僕が危篤なのです。だからこそ、百人隊長はユダヤ人長老たちの力を借りてまでして救いを求めました。
**************
イエスさまが近くまでお出でになったとき、百人隊長は、「あの方をお迎えできるような資格はない」と悟ります。これを伝えないわけにはいきません。
だからこそ友人たちを通じて、「自分には資格がない」=「私は罪人に過ぎない」と伝えてもらったのです。
「言(ことば)」である主イエスが向き合ってくださるのは、このような「信仰=生き方」なのです。
私たちも倣(なら)える信仰です。僕は癒(いや)されました。end
2023年5月7日
牧師 森 言一郎
『 神さまのスペシャルな〈選び〉 』
【 聖書 】
あなたの神、主は地の面(おもて)にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分を宝の民とされた。・・・あなたたちは他(た)のどの民よりも貧弱であった。(申命記 7章6節~7節)
申命記7章には「選び」にまつわる重要な言葉が二つあります。
一つは「宝の民」と呼ばれることです。親しみやすさを大切にする英訳聖書・Today's English Version(*略称・TEV)では「宝の民」を「special people(スペシャル ピープル)」としています。この言葉を私たちにも当てはめて読みたいのです。
もう一つ気になる言葉は、神さまが選ばれた民は「貧弱であった」という点です。
原文にさかのぼって意味を調べてみました。「little worth(リトル ワース)」=「ちっぽけな価値」とあるのです。驚きました。そして嬉しかった。神さまの「選び」は世間一般の価値判断と異なります。
でも、旧約だけでは「選ばれた民」は壁にぶつかります。神さまが出される「律法=方向指示」を(「戒め」「掟」「法」「定め」)「ちゃんと」守り抜くことができない。人間というもの。いつも、いつでも「ちゃんと」はできません。
イエスさまが選ばれた12弟子の中には、「罪人(つみびと)」のスタンプを押されていた「徴税人」が含まれます。イエスさまを引き渡すイスカリオテのユダもおりました。否、弟子たちは皆、主のもとから逃げ出す者たちなのです。それは私たちもです。
なんと奥深いご計画のある「選び」なのか。限りなく深いわが主の愛に、どう応えましょう。end
2023年4月30日 牧師 森 言一郎
『 ローマへの船 嵐の中のパウロ 』
【 聖書 】
暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。
*使徒言行録 27章20節
囚われのパウロにはローマに福音を携えて行くという使命がありました。使命は人に力を与えます。パウロは「私たち」と記されている仲間たちと共にローマに向かう船に乗せられていました。
ここでの「船」は教会を意味していることを心に留めましょう。
「ミラ」という港町で船を乗り換えたのは秋頃のことです。地中海が荒れ始めるのです。案の定、「船足ははかどらず、風に行く手を阻(はば)まれ」ます。
当時のパウロは、船旅の知識が増していたようで、無茶で危険な航海にストップを掛けますが、誰も聞き入れません。
総勢276名(*使徒言行録27章37節)が乗り込んだ船は「暴風」=「エウラキロン」によってもてあそばれ、木の葉のようにくるくると流されます。積荷を捨て、機具をゆるめ(*「田川建三訳」)、風と波に任せるしかなくなるのです。
航海の望みは消え失せました。 しかし、パウロだけは落ち着いていました。希望を失わないのです。
ローマ書5章3節に、「苦難は忍耐、忍耐は練達、そして希望」とあります。「苦しみよどんと来い」の信仰がパウロを貫いていました。
「あなたの道を主にまかせる時」(讃美歌21 - 528番・1節参照)、神さまは導いて下さいます。end
2023年4月23日 牧師 森 言一郎
『 最初のイースターの焼き魚』 【 聖書 】
「ここに何か食べ物があるか」と言われた。(ルカによる福音書 24章41節)
よみがえりの日、イエスさまが弟子たちに最初に語りかけたお言葉は、「あなたがたに平和」でした。弟子たちには緊張が走ります。
様子をご覧になったイエスさまが求められたのが「食べ物」でした。イエスさまに差し出されたのは「焼いた一切れの魚」です。それは残り物だったと思います。
その「一切れの魚」をイエスは喜んで食べられた。固唾(かたず)を呑んで見守っていた弟子たちを愛が包みます。ここに、罪人の友となって下さった「人間イエス」がおられるのです。
このようになさった後で、イエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」語られます。
食べることが先という順序が大切です。教会が食事を重んじるのは実に深い聖書的な理由(わけ)があるのです。
そのうえで、ルカによる福音書24章には、イエスさまの〈最後〉の教えが語られています。それは「赦し」です。人間イエスが示されたのち、キリストは「救い」の根拠を「聖書全体」に基づいて語られました。
最初のイースターの晩の出来事は、その後の弟子たちが、胸を張って生きて行くために、どうしても必要なことでした。end
日本キリスト教団 旭東教会
〒 704 - 8116 岡山市東区西大寺中 2-25-18
電話 086(942)2369
牧師 森 言一郎(げんいちろう)